錯視の盲点
――そうだ、今日助けた男性。彼の顔を見て、何か初めて出会ったという気がしなかったくらいだ――
もちろん、その男性が新宮晴彦であることは周知のことがあるが、実はその日、晴彦も花火を見ていないにも関わらず、彼なりに作曲意欲に燃えていたようで、気分の悪さが回復してくると、それまでの顔色の悪さがウソのように、スッキリとしていて、一人作曲に耽っていた。
彼は恭介のように、いつも一人というわけではなく、普段は友達と一緒にいる時間も結構あった。その日も、会社の帰りに一緒になった連中と軽く一杯やってからの帰りだったのだが、想像して以上に花火大会ということもあり乗客が多かったことで、不覚にも立ち眩みを起こしたのだが、普段はそんなことはなかった。実際にその日は、友達の栄転の内示が出たということで、少し早かったが、忙しくなる前にということで、内輪での飲み会となったわけだ。
一緒に飲んだ連中もそれぞれに忙しいということで、その日は一次会のみで終わったので、酒を呑んだと言っても、ほぼ一杯だけだった。皆もそれを分かっているので、まさか晴彦が立ち眩みを起こしているなど、思いもしなかったはずだ。
皆帰りは別方向ということもあって、晴彦は一人での帰宅となったのだが、運悪く、途中の駅で花火大会などやっていようとは、想像もしていなかったのだ。
友達と一緒に行動することの多い晴彦だったが、大勢の人ごみの中というのは苦手であった。満員電車は朝の通勤時間だけで勘弁してほしいと思っているほどだった。
会社は、都心部からは少し離れているので、そこまでの超満員というわけではないのがありがたかった。そういう意味では帰宅時間も少し会社で残業すれば、帰りは座って帰れるはずであった。この日は運が悪かったというべきであろうか。
飲みすぎて誰か年配の男性に助けてもらったという意識はあった。気分が悪かったので、どこの誰だか分からなかったのが残念だったが、そのうちに出会えるような気がしたのは、気のせいだろうか。
だが、せっかく出会うことができれば、恭介の方でも、
「どこかで会ったことがあったような気がする」
という思いを証明できたとしただろうが、いみじくも、その思いとは別の意味で、以前に出会っていたことが証明されることになるのであった。
それからしばらくしたある日の昼過ぎに、新宮晴彦は遺体で発見されたのだ。
逆さま
派遣会社に所属して今の会社に勤務している関係で、毎朝出勤時に、派遣会社に電話を入れるか、出勤予定のメールを送るかのどちらかが義務付けられていた。今までに晴彦はその規則を破ったことはない。何度か続くと、減給さらには、懲戒処分に値するほどの厳しいものだったが、派遣会社への報告がその日に限ってなかったのだ。
出社予定となっている会社の方に連絡を取ってみるが、どうも来ていないという。派遣先の会社では、それほど困らないということだったが、とりあえず別の社員が代打で出勤することになった。このまま正規の理由がなければ、懲罰ものである。
今までにこんなこともなく、真面目に勤めていた社員だけに、彼を担当している派遣会社の営業の人も気になったのだろう。
その日、営業で彼の住まいの近くまでいくので、少し覗いてみることにした。
彼とは個人的に付き合いもあった。この営業の人はまだ若く、最近入社してきたのだが、派遣としてであるが、会社への入社は早かった晴彦が何かと相談に乗ったりしていた。
本当は立場が逆であるが、二人ともそんなことを気にする人間ではなかったので、そういう意味でも二人はウマが合った。
そもそも、晴彦が大学で心理学を専攻していたということを話すと、
「えっ、実は僕も何ですよ」
と影響の男はいうではないか。
大学名をいうと、これも偶然か、同じ大学だった。学年的には晴彦の方が三年上だったが、立場的に考えてもこの年齢差はないに等しかった。
大学の先輩後輩ということで、仕事を離れると、プライベートでの付き合いが始まった。
派遣会社の社員と派遣社員とが親密になってはいけないという社内規則があるわけでもなかったので、二人は意気投合した。
彼は名前を樋口泰司といい、実は今の晴彦の友達は、樋口の紹介によるものが多かった。晴彦は結構荒廃や若い連中への面倒見のいいことには定評があった。
なるほど付き合ってみると、結構馴染みが深い相手ではないか、。
その日の栄転するという友達も樋口経由で友達になった連中なので、当然昨日一緒になった数人は皆樋口も昵懇であった。
樋口は昨日、晴彦が自分も知っている連中と呑んでいるところなでは知らなかった。いくら親しいとはいえ、仕事が終わってからの行動まで監視しているわけではないからである。
樋口は、何度か寄ったことのある晴彦のマンションに立ち寄ると、これも一度くらいは話をしたかも知れないと思う管理人さんがいたので、
「ここにお住いの新宮さんを今日、見かけていませんか?」
というと、
「いいえ、そういえば今日はお見掛けしていませんね。いつも朝ご挨拶するんですけどね。じゃあ、今日はお仕事お休みじゃないんですか?」
と言われて、自分がそおことで来たことをいおうか言うまいか悩んだが、とりあえず電話をしてみようと、思った。
携帯電話の連絡先は分かっているので、電話をかけてみると、出る気配はなかった。別に留守電になっているわけでもない。普通にコールしている。まだ寝ているのだろうか?
少し不安になったので、それを管理人にいうと、管理人室からも、内線を使って連絡してもらったが、出る気配がなかった。
気になったので、管理人さんを伴って彼の部屋の前までとりあえず行ってみることにした。
彼の部屋は三階で、奥から二番目の部屋だった。通路はそれほど広いわけではないので、自転車などがあれば、玄関の中に入れているだろう。通路から溝にかけて綺麗に清掃されているのを見ると、管理人の管理が行き届いているのか、この階の住人の誰かが綺麗にしているのかであろうが、たぶん管理人であろう。万遍なく綺麗になっているのを見ると、住民の仕業ではないだろう。普通であれば、自分の部屋の前以外を綺麗にすることなどありえない。それは自分だけがよければという考えではなく、下手に人の部屋の前などを綺麗にしようものならば、プライバシーの侵害などと言われかねない。それは実に嫌なことである。
昔と違って今の時代は、
「緒人情報保護法」
なるものがあるほど、他人の余計な必要以上の介入を嫌う傾向にある。
それだけに、管理人も気を遣う。
住人同士のトラブルはあって当然の世の中になってしまうと、管理人などという商売は割の合わないものになりつつある。
特に人と人とを管理するわけだから、どちらの味方をするわけにもいかず、絶えず影の存在でなければいけない管理人としては、辛い立場になることも少なくなかった。
「しょうがないじゃないか」
と言って諦めの境地に至るか、なるべくトラブルのないのを祈るか、難しいところである。