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錯視の盲点

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 その感覚にほぼ間違いはないと思っているが、より不思議な力と限りない力を感じるのは妄想だ。しかし、妄想とは結局自分の力の及ぶところではないので、不思議さの限界を計り知ることができないだけだ。想像力の方がより自分の意識の中にあるだけに、きっと限界を知ることはできるだろう。
 しかし、その限界を知らない間は、限りない力として感じることができる。そう感じている間、きっと限界が訪れることはないだろう。一つの答えを見つけても、新たな想像力を紡いでいく、数珠つなぎの妄想は、きっと途切れることはないに違いない。
 音楽の想像は、そのようなものだった。規則tだしい鼓動はリズムであり、抑揚はメロディ、創世記の地球から、今の地球を作り出すなどという無謀なことはしないが、そのプロセスにおいて、いくらでも発展性のある曲というものを作ることはできるのではないか。ここに果てしない妄想が絡んでくれば、いくらでも曲を作ることはできる。
「どうせ正解なんてないんだ」
 という考えの元、作品は無限である。
 作曲を始めると、一つの曲を作り上げないと気が済まないというよりも、一度作り始めると、その間に違う時間が挟まってしまい、一度妄想の世界を離れてしまうと、もう作れなくなる気がしていた。
 曲を作るのは妄想の世界である。最初は想像の世界を膨らませていき、曲の完成が近づいてくると、妄想に入るのだ。
 もし、どこかのタイミングでその日の曲作りをやめたとして、次回作成に問題なく入れるタイミングがあるとすれば、この
「創造から妄想へと移る時」
 なのではないだろうか。
 ただ、これはある意味実に危険である。
 タイミングとしてはここしかないと思うのだが、一歩間違えると、せっかく想像力を豊かにしてきたものを渡すことなく、奈落の底に落としてしまわないとも限らないからだ。
 想像の世界と妄想の世界の間は、断崖絶壁の谷間に掛かっている一本の不安定な吊り橋に過ぎない。普段は意識もせずに渡しているのだが、途中で研ぎるということは、想像の世界の最後でやめるのか、それとも妄想に渡してしまってからやめるのかで違ってくるだろう。
 もし、想像の最後でやめてしまえば、目の苗の危険な橋を意識して渡らなければいけない。逆に渡ってしまっているとすれば、妄想の世界というのが、自分で作り出したものではないだけに、想像と妄想を繋ぐ吊り橋すら見えないだろう。
 なぜなら吊り橋は、想像の世界から段階を踏んで作り上げられた創造物を持ってでないと、その吊り橋すら見ることができない。妄想の世界になど入ることはできないのだ。
 妄想の世界にいきなり入り込んでしまうのは論外である。意識が紡いだものではないだけに、どこに現れるか分からない、
 夢というものを怖い夢しか意識がないように、妄想の世界にいきなり入り込むと、ロクなところにはいかない。当然、自分の望むところに現れることができるはずもなく、想像との境目が分からず、まるで想像の世界と妄想の世界が、
「現実と夢の世界」
 のように感じられることだろう。
 いきなり眠ってもいないのに、夢を見ることなどできるはずがないように、いきなり妄想の世界に飛び出すことはできないのである。
「夢と現実の世界と同じようなものが夢の世界に広がっているとするならば、それこそが創造の世界と、妄想の世界だと言えるのではないか」
 現実の世界で集中することは、夢の世界、その中でも想像と妄想の世界に入りこむことを意味している。
 そう思っていると、音楽を作ることも苦ではなくなってくる。そのことに気付くようになったのは最近になってからのことで、そう思うと、一人でいることの意義が分かってきたような気がした。
「寂しさなんて幻想だ」
 この幻想というのは、想像も妄想も伴わない、ただの余計な見えなくてもいい幻にすぎないものである。
 幻というのは、一口に言って、広義の意味でいろいろな解釈がある。
「心的表象としての、いわゆる空想やイメージとしての存在」
「現実には間違いなもの。すなわち、イリュージョン、幻想、幻覚など」
「現実には存在するが、実際には数が少ないため、希少価値とされるもの」
 などいろいろな意味で、幻という言葉が使われる。
 ただ幻を考える時、現実世界を基準にして、この世界でのできごとなのか、それとも別世界でのその世界そのもの、あるいは、その世界での事象を幻として解釈するものとに分かれる、
 それでも基本は現実世界にいる自分が感じることであって、夢という言葉と対比されることで、
「夢幻」、「ゆめまぼろし」
 と表現される場合、イリュージョンや幻想などというものを、狭義の意味での幻と捉えるのが一番いいのではないだろうか。
 そうではあるが、恭介の中で、幻と幻想とは別のものであった。先ほどの
「寂しさなんて幻想だ」
 というところの幻想という言葉は、本当は幻という意味ではないかと思っている。だから、恭介は幻こそが幻想の中でも想像も妄想も伴わないものだと考えるようになった。
「夢も幻も儚く消えたとしても、それは仕方のないことだとして諦めのつくものだと言えるのではないだろうか」
 とも考えていた。
 その日に作った音楽は、一つの組曲として、さらに翌日も作成しようと思った。組曲であれば、一曲の中にもう一つの短い段落が存在する複数の曲で彩られる。全体を一つの完成品として、一つ一つを紡いでいくことは、映画音楽としても、プログレッシブな理論に対しても、どちらも叶えられることでもあった。
 三時間ほどで数分の曲を作り、それを一日暖めながら、何度も聞き返してみた。今ではスマホでも音楽を作ることができるアプリもあり、
「世の中の進歩は、趣味の世界にも充実させている」
 感じさせられた。
 その日の創作は、惑星をイメージしたものとなった。壮大な幻想が漆黒の闇を包む。その中でひときわ大きな星、木星のその向こうに、輪っかを作った星が見える、普通に考えれば土星なのだが、本当に土星だろうか、そうやって想像していくうちに、宇宙が曲になっていく。普段ならここまでは想像できないと思うほど、今日は冴えていた。想像していた三時間もかからないうちに、五分ほどの曲が出来上がった。曲名はまだないその曲は、スマホに保存し、自分の最新作として、いよいよ本格始動を思わせた。
 こんな気分になったのは久しぶりだった。曲を作ることが最近では億劫にもなっていて音楽の旋律が浮かんでこない日々が、実は続いていたのだ。
 何がきっかけになるか分からない。その日は、実際に見たわけでもないのに、花火がイメージとしてあったのだろう。
 花火がさく裂するというのは、しょせん地上から数百メートルくらいのものである。飛行機の飛行高度に比べても極めて低いところでさく裂しているのに、どうしてあのような綺麗に見えるのか、それを思うと花火の神秘性、そして宗教が絡むというのも分からなくもないというものである。
 さく裂するスピードも大草で比例するわけではなく、早く広がるものもあれば、ゆっくりと広がるものもある。そんな神秘的な花火を見ていて、宇宙を想像したのも、何か閃いたものがあったからなのかも知れない。
作品名:錯視の盲点 作家名:森本晃次