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錯視の盲点

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 冷静に自己分析ができる時というのは、躁鬱状態ではありえないことだ。自分を包むまわりの状況、まわりを見る自分の目がいつもと違っているということに気付きはするが、どのように違っているかということを表現するのは難しい。
 その時、恭介が助けた相手は、サラリーマン風の三十代くらいの男性だった。
「すみません。降りる駅でもなかったんでしょう?」
 と言われて、
「ええ、まあ」
 と、本当は、否定するのが一般的には常識なのかも知れないが、恭介は否定する気にはならなかった。
 相手は恐縮するのも分かっていたが、しょせんはお互いに社交辞令、正直に言って何が悪いと感じていた。
 こういう時に気を遣う人間をどこか好きになれない恭介だったが、気を遣う必要がある時というのがいまいち分からない。実際に社交辞令という言葉が好きになれない恭介は、
「一般常識的」
 という言葉も大嫌いだった。
 一般的な常識とよく言われるが、誰が一体決めたことだというのだ。そんなものに縛られるから、一般常識を過剰に解釈する人もいて、余計なトラブルを呼ぶこともあるのではないかと思うのだった。
「ひょっとして、自分が感じている躁鬱症という精神疾患も、この一般的常識というものの存在を意識しすぎて、そこから入っているのではないか?」
 と感じることがあった。
 意識しすぎると、自分だけではなく他人への強制にも繋がってくる。何しろ一般的な常識というのは、誰も二当て嵌まる平等なことであり、だからこそ常識という言葉を使っていると思っているのだとすると、そこに罪悪感は存在せず、堂々と正義をひけらかすことができるという考えに至ってしまう。
「一般的常識」
 という言葉は、その言葉の持つ大きな制約力をバックに、自分の考えを押し付けようという実に姑息な考えなのではないかと恭介は思っているが、それも精神疾患があると感じる自分が考えたことだからであろうか。
 恭介は、この
「一般的常識」
 という言葉を悪としてしか捉えていない。
 今ではヘドが出るほど、気色の悪い言葉として認識しているのだった。

                創世の世界

 自分に精神疾患があるという意識から、恭介は、
「まわりの人から避けられている」
 という被害妄想のようなものがあった。
 そのせいで、友達もできず、一人音楽を作っては発表していた。最初の頃は大変だったが、途中からネットが普及することによって、直接人と会話をする必要がなくなったことで少し楽になった気がした。
 しかし、それは単純に目の前にいる人と、目線を合わせて会話をしなくなったということだけで、文字による会話であっても、それに慣れてくると、まるで面と向かって話をしているように、文字からでも相手の考えていることが分かってきたりする。
 普通に面と向かってコミュニケーションが取れていた人より、元々コミュニケーションが苦手な人の方が、その感覚を顕著に表すというのは実に皮肉なことである。
 恭介の場合は、文字だけで相手が考えていることが分かった、相手の目を見たり、表情から考えを探ることを得意としていた人には、まず文字でのコミュニケーションに戸惑いを覚えるから、なかなか慣れてくるまでに時間が掛かるからではないだろうか。
 そう思うと、それまでとは立場が変わってしまって、相手が考えていることが手に取るように分かる気がしてくるのだ。
 だが、面と向かっているわけではないし、今まで考え方が卑屈だったこともあって、せっかく自分に今までになかった能力が備わったにも関わらず、自分のその能力を信じることができない。つまりは、分かったことが信じられないという状況に陥るのだ。
 そうなってしまうと、今度は何も信じられないような錯覚に陥り、その思いが自己嫌悪を引き起こし、嫌な予感とともに、そのまま躁鬱症に突入してしまうという、まずいパターンを作り出すことになるのだった。
 それでも、人と接触しないというのはありがたい。自分の実力だけを皆が見てくれるからだ。まがい物ではない自分の実力だけを見られるというのは、ありがたいことだった。そのうちに音楽も認められるようになり、インディーズではあったが、次第に評価を受けるようになった。決して悪い評価ではないことに気持ちをよくし、
「音楽をこれからもやっていいのだ」
 という自信に繋がっていく。
 ちょっとしたことでしかないのだが、そのちょっとしたことの積み重ねが、自分を成長させてくれると、恭介は感じていた。
 その日、恭介と晴彦はその後すぐに別れた。晴彦の方で、
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
 と言って、普通に帰宅することができそうだったので、それ以上関わる必要もなかった。
 もちろん、お礼がほしいなどという浅ましい思いがあったわけではない。
「お礼がしたい」
 と言われれば、黙ってしたがうだけではあったが、これも相手任せだと思っていた。
 いわゆる「一般常識人」は、そんな時、
「いやいや、お気遣いはいりません」
 などというのだろうが、拒否することに何の意味があるのかと恭介は思っていた。
 例えば、今はなかなか見られないが、昭和の時代のおばさんたちなどは、喫茶店で会計をする時、
「今日は私が払います」
「いいえ、私が」
 などと言って、我先に会計を済ませようとする。
 今思えば、最初からワリカンにしておくとか、
「今日は自分が払うから、次回はお願いね」
 などと言えば、その場は丸く収まるのに、ただ自分が払うということを言い張って、時間だけを費やしている。
――バカじゃないんか――
 といつも思うのだが、人に気を遣うということが何においても優先されるとでも思っているのか、そのような行動に、苛立ちを覚えるのは、自分だけではないと思っていた。
 それを気遣いというのであれば、そんなものは必要ないと思う。見ていて見苦しいだけだ。そんな連中はまわりが見えているわけもなく、きっと子供がいて、同級生であったりすれば、心の中で、
「私の息子はあんたの息子よりも優秀なのよ」
 と言い続けていることだろう。
 相手に気遣いは求めないが、もし相手がお礼がしたいというのであれば、甘んじて受け入れることにしている。
「それじゃあ、言っていることと矛盾しているんじゃないか」
 と言われるかも知れないが、もし、そこで断ってしまった方が、相手に失礼だと思うのだ。
 それではまるで、相手をプレハブの屋上に梯子で昇らせて、その梯子を取っ払ってしまい、置き去りにしたかのような印象だ。素直に申し出にしたがうことで相手のメンツも立つだろうし、貸し借りなしという意識を相手が持ってくれればそれでいいと感じるからだ。
 ここで相手の申し出を断るということは、自分が相手に対し、何も求めていないことを証明しないと相手から変な思いを抱かれたままになってしまうとでもいうような余計な気の回し方になるのではないかと恭介は思っていた。
作品名:錯視の盲点 作家名:森本晃次