短編集94(過去作品)
中山が小説を書いているということを知っている人はおそらくいないだろう。本を読んでいてもすぐに眠くなってしまうことを知っている人ばかりだからだ。
「本当に眠くなってしまうんだ。最近じゃあ、三十分と持たないよ」
と笑いながらまわりの人に話すと、
「中山さんは飽きっぽい性格なんじゃないですか? だから眠くなるんですよ」
と言われる。それも間違いではない。確かに飽きっぽい性格だ。だが、それは一点を見ているからであって、実際は飽きるまでの期間を誰も知らないからだ。
いや、それは語弊があるかも知れない。中山の食生活を見ていれば、彼の性格を分かる人はいるだろう。
「飽きないですね」
いつも同じものを食べているのを見て、同僚から言われるが、
「僕は好きなものは徹底的に続けるんだよ。飽きるまでね。だから本当に飽きると、見るのも嫌になるくらいなんだよ」
と言い返す。
小学生の頃までは、これは自分だけではなく、まわりも皆そうなんだと思っていた。どちらかというと、あまりまわりのことを気にしない小学生だった。自分のことも分からないのに、人のことが分かるわけはないと考えていたからだと思っていた。小学生にしてはしたたかな考えだったに違いない。
それが言い訳だったことに気付いたのは中学に入ってから。小説を読むようになって、表現の中に人それぞれの違いを見つけた時、初めて個性というものの存在に気付いたように感じた。
本も読み続けると飽きてくるものなのだろうか。そんなことはないはずだ。睡魔が襲ってくるのは飽きが来たわけではない。やはり自己暗示の類なのかも知れない。
「本を読むと眠くなりますよね」
小学生の頃に、まわりでそんな話をしている人がいた。何でも素直に聞いてしまうことの多かった小学生時代、
――そんなものなんだ――
その時は漠然として聞いていても、しばらく経って思い出せば、まるで昨日のことのように感じられる。それこそが自己暗示なのだろう。
中山に武家屋敷の話をしてくれたのは、小説にも漫画にも関係のない人だった。
会社の同僚というだけで、それ以外はプライベートな関係は何もない。そんな人から聞いた話の方が、今は新鮮な気がするのだ。仕事でのストレスを趣味でカバーしようとしていたが、趣味も次第に真剣に考えてくると、どちらのストレスか分からなくなってくる。
仕事でのストレス、趣味でのストレス、どちらが嫌なのだろう?
人によってまちまちだとは思うが、中山は趣味のストレスの方が嫌だった。それだけ趣味に対しての自分のウエイトが大きくなっているからだ。
そのことが悪いというわけではない。仕事人間になってしまうことを元々嫌っていた中山なのだから、趣味へのウエイトが大きくなることは、むしろ願ったり叶ったりであった。
バブルが弾けてしばらくしてからだった、自分の将来について真剣に考えるようになったのは。その頃というと、バブルに乗じて手広く伸ばしてきた事業を、一気に縮小することによって起こるリストラという言葉が世間を騒がせた時代だった。リストラによって縮小された会社では、社員の残業も極力減らし、それによって空いた時間を、趣味に使うという人が増えてきた話をよく聞いた時代でもある。
もちろん、アルバイトなどを増やし、その分正社員には責任が大きくのしかかる時代がすぐにやってくるのだが、最初に感じた趣味に使う時間を増やしたいという思い、それだけが頭に残っていた。
――会社人間にだけはなりたくない――
という思いである。
あれから十年以上の歳月が流れ、正社員はそんなことを言っていられないような状況になったにもかかわらず、
――会社人間にだけはなりたくない――
という思いが頭から離れることはなかった。小説に漫画、仕事の合間に趣味としてやっているつもりだったが、いつの間にか仕事よりも集中していることを意識していた。それも中山の性格の一つである。
――中途半端なことはしたくない――
聞こえはいいが、好きなことだけは必死になれる。そのために他のことは疎かになってしまうこともあるが、
――一つのことに集中するんだから……。どちらも中途半端になるよりはいいさ――
と思っているので、中山にとっては当たり前のこととして片付けていた。一つ一つを整理できるほど几帳面な性格でもない。
「几帳面な人は、ストレスなど溜まらないのかも知れないな」
と中山は考えていた。それを人に話すと、
「そんなことはないさ。人それぞれに性格が違うように、人それぞれに悩みも違うものさ。君が悩んでいることだって、人から言わせれば悩みじゃないっていうだろうし、逆に他の人が悩んでいるようなことを君が見れば、そんなの悩みでも何でもないって言うかも知れないだろう?」
と言われた。思わず納得してしまったのを覚えている。武家屋敷のことを話してくれたのがその話をしてくれた人で、武家屋敷の話が出てきたのもその時で、もしそれが他の時に聞いたのであれば、
――武家屋敷か、行ってみたいな――
とは思わなかっただろう。実にタイミングのいい話だったのだ。
仕事の忙しさがあった時だったので、武家屋敷の話は頭の片隅でしばらく燻っていた。しかし、決して消えたりはしない思いだったのは、電車の中で見る夢に、必ず武家屋敷を見たからである。
布団の中で横になって見る夢には決して出てこない武家屋敷、一体どうしてなんだろう?
そういえば、横になって見る夢と、疲れてうたた寝している時に見る夢とは、必ずといっていいほど違う夢を見る。横になって見る夢とうたた寝とでは当然眠りの深さも違うだろう。
――うたた寝のような浅い眠りで夢を見る時間などよくあるな――
と感じるが、考えてみれば夢が浅い分、見た夢を忘れないとも考えられる。時間にしてどうだろう。眠っている時間が数分だった時でもしっかりと武家屋敷の夢を思い出すことができる。もっとも、意識としての睡眠時間は数時間あったように思えるくらいなので、かなり夢自体凝縮されたもののような気がしてくるのも無理のないことだろう。
通勤電車で、表の景色を意識しながら見ていたなど、いつまでだっただろう?
何も考えずに車窓から表の景色を眺めていられるなど、元々中山の性格ではない。いつも何かを考えていて、考えることがない時でも学生時代に思いを馳せていたりする。
では学生時代はどうだったのだろう?
学生時代は、将来に思いを馳せていた。いいこと悪いこといろいろ頭を巡る。悪いことばかりを考えてしまって、電車の中で考えごとをしたくない一心で本を読んだりしたものだ。それが睡魔を誘い、悪循環を呼ぶ。
眠ってしまった夢の中で余計なことを考えてしまう。浅い眠りは現実に近いという感覚を植えつけられてしまっているのか、そんな時に限って、将来仕事に失敗してしまい、追い詰められる自分を夢に見てしまったりする。今はそんな学生時代を懐かしく思うのだから面白いもので、それでいて今でも夢見の悪い時は、学生時代に危なかった就職や卒業試験の苦い思いが思い出されてならない。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次