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短編集94(過去作品)

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のっぺらぼう(短編)



                のっぺらぼう(短編)


 武家屋敷には情緒がある。そこには重たい空気が充満していて、まさしく歴史の厚みを感じさせるものである。
――さぞや立派な城主がおられて、城下町は繁栄していたことだろう――
 と思いたい。街が栄えていれば武家もそれなりに風格のある人がいるはずで、街が人を育てるとでも言うべきか、特に武士は誇りの高いもの、まわりの環境にも敏感であろう。
 いばり散らしてばかりの人がいるところに繁栄はないと中山は考える。不平不満は隠していてもどこかでほころびとなって現れてくる。現れてしまえば不満がストレスとなって人に及ぼす影響も甚大で、一人で済むことが済まなくなってしまう。
 よく時代劇で見られる悪代官、本当にそんな人がたくさんいたのかは分からないが、街の繁栄を著しく妨げる要因となったことは間違いないだろう。せっかくの財産も、彼らの私有に帰してしまえば、そこからの成長はない。自分に都合のいい取り巻きだけをそばに置き、後は排除の考えに、文化の成長などありえるはずもない。たくさんの個性、考え方があり、切磋琢磨してこそ文化というのは成長するのだと中山は考えていた。
 あれはいつのことだっただろう。友人の話の中に出てきた武家屋敷。
「訪れると不思議な気持ちになって帰ってくるんですよ」
 と言っていた。
「何度か訪れているんですか?」
「ええ、何度訪れても不思議な気持ちになるんですよね。まるで自分が江戸時代の文化人にでもなったような気になるんです」
 江戸時代の文化人とは、どのようなものだろう。ちょんまげを結った人物が頭に浮かぶが、そんな文化人というと近松門左衛門や井原西鶴が浮かんでくる。それぞれに個性のある表情だが、現代の文化人ばかりを見ているので、どうもピンと来ない。
 中山は雑誌社の営業をしているので、文化人と呼ばれる人たちと馴染みが深い。
「皆さん個性的な方ばかりですからね」
 と表向きにはそういうが、心の中では、
――どうにもついていけないや――
 という思いが強い。気まぐれや思いつきで後先考えずに行動してみたり、普通の常識のものさしでは測ることはできない。文化人と聞くと偏屈というイメージしかない自分を情けなく思う。
 中山も元々は漫画家を目指していた。漫画家も立派な文化人である。しかしあまりにも競争率の激しさに自分の限界を思い知らされ、結構早い段階で漫画家への夢をあきらめていた。
――淡白なのかな――
 目指していたというよりも夢を見ていたのかも知れない。実力があってプロに近づきたいと思うのが目指しているということならば、夢はもっと漠然としたところにある。中山は夢を見ていたのだ。
 確かにいろいろなコンクールに応募して実力を確かめたいと思ったが、結果が出なければ実力のほどなど分かるはずもない。それでも、
「継続は力なりというじゃないか」
 と言って、目が出なくとも何年も、いや何十年も続けている人もいる。
 中山はあっさりと諦めた。
――本当に淡白だ――
 と思いたくもなる。
「お前には意地というのがないのか」
 過激な同人たちはそう言って中山を詰るだろう。しかし、そんな過激さも嫌いだった。皆それぞれ自分の世界を目指しているのに、どうして他人からとやかく言われなければいけないのかと思うのも当然である。
 中山も同人サークルに籍を置いていたが、サークルの結束がいまいちなのを最初は不思議に感じていた。それも分かってみれば当たり前、一人中心人物がまわりに影響を及ぼし始めればしこりが出始めるのも仕方のないこと。中心人物は、芸術を目指すよりも事業家としての道を歩んだ方が似合っているのではないかと思えるほどだった。
――これでは人は寄ってこないな――
 一般企業の上司としてなら尊敬できるところもあるだろうが、元々が有志が募ってできたサークル。他人からとやかく言われるのを嫌う人間が集まっていると思って正解だろう。他のサークルすべてがそうだとは言えないが、芸術家を目指しているという自負がある以上、他人と自分との間に一線を画している人が多いはずだ。
 果たしてその時まわりにいた人たちが文化人と言えるかどうか分からないが、気持ちは文化人、そんな人たちと一緒にいることで、自分も文化人だという自覚が持てるのだ。そうでもなければ同人サークルなどに籍を置くことなどするはずもなかった。それだけ自分の性格が個性的だと思っていた証拠であろう。
 それを平等という言葉で表すには単純すぎる。芸術家の個性こそ頭打ちしてしまえば底から先は伸びることはないということである。個性という言葉、取りようによってはいろいろな解釈ができる。人が見て偏屈に見えることでも、彼らからすれば個性なのだ。ただ、許せることか許せないことかというだけの違いである。
 偏屈という言葉を聞いてすぐに個性だと思ってしまう自分が一番偏屈ではないだろうか。そう感じることが情けないのである。
 友人から聞いた武家屋敷の話が最近になって気になり始めたのは、最近睡魔に襲われることが多くなったからだ。
 睡魔に襲われるのは、通勤電車が多い。仕事が終わってからの帰り、ひたすら田舎を走る電車の車窓からは、夜ともなれば何の変化もない光景しか見ることができない。
 電車の揺れはこの上なく睡魔を誘う。そのことに気付き始めたのもごく最近のこと、学生時代にはなかったことだ。
 学生時代などは、電車の中で本を読んでいても大丈夫だった。それが最近は、電車以外のところでも本を読んでいるとすぐに眠ってしまう。自己催眠の類だと思えば納得もいくが、どんなことでもそれなりに理由というものが存在するはずだ。この場合は「きっかけ」というべきであろうか。
――一体いつ頃からなのだろう――
 心当たりがないわけではない。
 漫画家を目指すようになってからというもの、しばらく活字から離れていた。中山は最初から漫画家を目指していたわけではない。むしろ最初は小説家だったのだ。小学生の頃から本を読むのは好きだったが、なぜか斜め読みしかできない性格でもあった。
――きっと結論を知りたいという思いが強すぎるんだろうな――
 と思うようになっていたが、それも間違いではない。
――すぐに眠くなってしまいそうになるからだ――
 と感じ始めたのも間違いではない。
 眠くなり始めるということは、集中していないからだろう。集中していないから先が気になる。先が気になるから集中できない。要するに悪循環なのだ。
 そのことに気付いたのは、漫画を描くようになってからだった。
――漫画には小説にない感性がある――
 最初漫画というと、文章では言い尽くせないことを絵で表現できてしまうもので、中山からすれば、反則めいたものに見えていた。あくまでも正攻法を重んじる性格は、自分でも偏屈だと思っている。だからこそ個性にしてしまいたかった。それが漫画を描くようになった理由でもある。
 だが、それも簡単に諦めてしまうのだから、やはり小説というものに最初感じた思いを思い出してしまうのだろう。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次