短編集94(過去作品)
ネオンサインを見ていると、完全にもやがかかっている。川面までの距離がハッキリしないのは、もやが掛かっているせいもあるだろう。
昨日飛行機の窓から見えた福岡の街を思い出していた。旋回しながら風がないわけでもないのに、波一つ立っていないように見えた真っ青な海に浮かぶ志賀島、真っ青というよりも思い出そうとすればするほど黒さが増してくる海、決して想像しているよりも綺麗な海ではないはずだ。
――高いところから海を真下に見るから綺麗にしか見えないんだ――
角度によって綺麗に見えたり、どす黒く見えたりする。それは実際の目であっても、心境の変化という心の目の角度にも同じことが言えるのかも知れない。
川の表面を見ていると、飛び込みたくなる衝動に駆られていたが、川の底から聞こえてくる声がもやの中に打ち消されるように感じていた。
声の主は聞き覚えのある声で、まさしく里美である。
川の表面しか見えていなかった達男は、今までずっと妹としてしか里美を見ていなかったことに気付いた。もちろん意識はしていたが、それも妹であるという前提の下にである。
川の底から聞こえてくる里美の声で自分が妹としてではなく女性として彼女を好きだということに気付いた。見えていなかったものが見えてきたのだ。
昨日は間違いなく川の表面しか見えていなかった。そして出会ったのが恭子である。
恭子の中に里美を見た。いや、里美の中に恭子を見たのかも知れない。今まで想像したことのない里美の中の妖艶さに気付いた瞬間ではなかったか……。
恭子を抱いてしまったことを後悔する気持ちの中に、里美への意識が次第に募ってくる。
川の底から聞こえてくる里美の声、途切れ途切れで力ない声であるが、達男にはハッキリと聞こえていた。
「来ちゃいけないよ、お兄ちゃん……」
結局は妹としての距離は縮まらないことを知った。だが、それは妹としての里美であって、達男は川の底にいる里美に向って、
「もう、お兄ちゃんじゃないんだ」
と語りかけていた。
その瞬間に風が止まり、見つめ続ける川面の紋は消え、綺麗な真っ青に変わっていた……。
( 完 )
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次