短編集94(過去作品)
彼女はビックリして振り向く。横顔である程度の確信はあったが、正面から見つめられると間違いない。義妹の里美にそっくりである。ゾクゾクしてくるほどだった。
「こんばんは」
すぐに笑顔に変わった彼女は驚きはどこかに吹き飛んだようだ。屈託のない笑顔は妹の里美よりも純粋に感じる。
初めて出会った女性にこれほど屈託のない笑顔を感じるなど、今までになかったことだ。もっとも初めて出会った女性に自分から声を掛けたことなどなかったので当然なのだが、ただ単に勇気がなかっただけだったのだ。かといって他の女性に声を掛けられるかといわれれば、
「きっと無理だと思う」
と答えるだろう。
旅先で、しかも里美に似ているという偶然が、達男に勇気めいたものを与えたに違いない。
彼女は、福岡のOLで名前は恭子というらしい。
恭子の雰囲気はまず話しやすいこと。気さくな雰囲気で、川を見ていた時に感じた横顔からの雰囲気からは少し意外な気がした。どちらかというと一人で物思いに耽っているのが似合っていそうな雰囲気だったからである。
「でも、私は一人で行動することも多いんですよ。今日のように川を見ながら一人でいるっていうのも好きなんです」
「一人でいて絵になるっていう雰囲気ですね」
「そこまではないかも知れないんですけど、そうなれれば素敵でしょうね」
屈託のない笑顔から、一人で絵になる女性の雰囲気は一見ほど遠い感覚があるが、それだけ雰囲気を表に出すことができる女性というのも素敵である。
「恭子さんの雰囲気が妹に似ているんですよ。それで思わず声を掛けてしまったんです」
恭子の顔を見ていると、何でも話せてしまうから不思議である。里美にも話せないことでも、もしずっと一緒にいればすぐに話せるようになると思う。それだけ恭子の笑顔に屈託がないのか、それとも、達男自身が里美に対して遠慮のようなものがあるのか、どちらものような気がして仕方がない。
――里美に遠慮――
この感覚は初めてだ。義理ということで、本当の妹に感じる思いと同じ思いを抱けているのかどうか疑問に思っていることはあったが、遠慮という感覚は初めてである。
里美の顔を思い出そうとしていた。しかし、目の前に鎮座している恭子の溢れんばかりの笑顔に打ち消されてしまって、なかなか思い出すことができない。
もちろん、こんなことは初めてだった。
――こんなことなら、声を掛けなければよかった――
まったく見当違いの感覚が頭の中に芽生えていた。
「ご一緒に食事でもいかかですか?」
決してナンパな気持ちではない。自分で分からなくなってきている気持ちをもう一度元に戻したいという気持ちが半分はあった。残りの半分は、達男自身の気持ちである。自分が恭子と出会ったことで、どう感じるか。もちろん、このまま別れてしまいたくないという気持ちが一番強い。
であい橋を渡り、中州へと向う。恭子が向おうとした方向だ。
地下に降りていく洒落たバー、そんな店には今までにあまり入ったことはない。大学時代に連れて行ってもらったこともあったが、先輩に連れていってもらうのと、知り合った女性から連れていってもらうのとではかなり趣が違う。緊張するという意味では一緒にはなるが……。
ジャズが流れていた。薄暗い店内のショーケースに所狭しと並べられたワインが、スポットライトを浴びて怪しく光っている。
ワインを呑みながらゆっくりできる相手は今までにはいなかった。里美と一緒に行きたいと思ったことはあったが、必要以上に意識してしまうことを恐れ、達男の口から出てきたことはない。
気持ちは里美も同じだったのだろうか。里美とは洒落た店での食事などしたことがなたった。
「ワインって、意外と酔うものなんですね」
「ええ、意識しなければ分からないんですけど、顔が熱くなってきますね」
まさにその通りだった。
「私ね。昨日誰かに声を掛けられる夢をちょうど見たんですよ」
「正夢だったのかな?」
一瞬驚いたが、顔に出してはいけないという思いが強く、平気な顔をしていたはずだ。だが、ワインの酔いに勝てたかどうか分からない。逆をいえば、すべてをワインの酔いとして片付けることもできるだろう。
「声を掛けられるなんて初めてだったんですよ」
その時の笑顔は、里美が見せたことのない笑顔に見えた。
――里美にはまだまだ自分の知らない表情があるんだ――
と考えると、心境は複雑だった。
恭子はアルコールが入れば艶やかだ。艶のある真っ赤なホッペに光が当たり、暗い店内を感じさせない表情が妖艶である。
女性の誘いかけるような表情を今までに見たことのない達男は、ゴクリと喉が鳴るほどの息苦しさを感じていた。その表情は明らかに里美とは違い、大人のオンナである。里美に感じた思いを恭子の表情がすべて打ち消しているようだ。
なまじアルコールの影響だけではないのかも知れない。
――会うべくして出会った仲――
ちょうど出会ったのもであい橋ではないか。運命を感じるのは無理のないことだ。
酔いも適当に回ってきたところで、どちらからともなく表に誘った。火照った顔に表の風が気持ちいい。ネオンサインに紛れて歩いていると、当たりそうなくらい人が多い。歩くその先に見える怪しげなライトが誘っているように見えるのは、酔いに任せているというのでは、言い訳にしかならないだろう。
しかしその時の達男には、恭子が前からの知り合いで、すべてを知っているような気がしてならなかった。
ホテルでの時間はあっという間だった。もちろん達男が女性を抱くのは初めてではない。しかし、出会ったその日に身体を重ねるなど、今までにはなく、愛情を感じていたかどうかも後になって考えれば分からない。
もちろん、その時は感じていたに違いない。相手をほしいという気持ち、それが愛情だと思ったからだ。
その時に理性という言葉は関係なかった。里美への思いがどこかで打ち消されたのか、それとも里美への思いが爆発したのか、今となっては分からない。放出した後襲ってきた倦怠感の中で、後悔を感じたことは間違いない。するとその時、頭の中に里美はいなかったことになるが、本当にそうだろうか?
流れは自然だった。すべては我に返った後、考えていることだ。
一夜をともにすることになったが、目が覚めると横に寝ているはずの恭子はいなくなっていた。それも分かっていたような気がする。まるで夢を見ているようだ。
里美への後ろめたさが消えるわけではないが、恭子の記憶が隣に寝ていないことで薄れていく。このまま記憶から恭子がすべて消えてしまうような気さえしていた。
ホテルを出ると、まだ薄暗く、誰も歩いていない通りには、ごみが散乱している状態だった。
――つわものどもが夢のあとってところかな――
と感じていたが、自分の現状もそうなのかも知れない。
ゆっくりと向うはであい橋、橋の上で火照った身体を冷やしながら、川面を見てみたかった。
手すりに?まりながら川面を見ていると、夕方見たよりもさらに近くに感じた。しかし、それは一瞬で、暗い川面まで正直どのくらいの距離があるか分からない。思わず乗り出してしまいそうになるのを堪えたくらいだ。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次