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短編集94(過去作品)

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 これは会社の先輩が話していたことで、そう思って仕事をすれば、頑張る目標もできると言われた。少し消極的でもあるが、期間を目標にしていると、案外仕事を覚える時の目安にもなる。いつも頭の中で反芻していた。
 二年目に入ると仕事にも慣れてきた。自分が何をしなければいけないかが分かってくると、後は時間だけである。テキパキできるようになるまでは慣れと経験が必要で、焦る必要はない。分かっていることだった。
 二年目に彼女もできた。きっと仕事に余裕が出てきて、精神的に余裕が滲み出るようになったのだろう。相手が自分を見ている目に、尊敬の念が表れていることを江坂は気付いていた。
 朝、立ち寄る喫茶店で知り合った彼女は、意外と近くに住んでいることで意気投合した。話しかけたのは江坂の方からだったが、女性に話しかけるのにかなり度胸がいって、彼女の存在を気にし始めてから話しかけるまでに、実に三ヶ月かかった。
 驚いたことに、話をしてみると、お互いに同じ時期あたりから気になるようだったようで、二人がこの喫茶店に初めて来たのも似たような時期だったようだ。初めて来てからお互いを気にするようになるまで一ヶ月くらいは掛かっていただろう。モーニングの時間は他に客も多く、それでいて自分たちの指定席は暗黙の了解で皆決まっているので、いつも同じ席になるのは必然だった。
 江坂自身は、いつも奥のテーブルに腰掛け、表を見ているのが日課だった。ちょうど駅のロータリーが見えて、到着したバスから乗り降りする人の群れを見つめる位置に座っていた。
 人の乗り降りを見ていたといっても、漠然とであって、意識して見ていたわけではない。ただ、人の乗り降りがいつもまったく同じ光景なので、何の意識もなく漠然と見れるのだ。少しでも違えばきっと違いに気付いていたに違いない。
 月曜日は他の曜日に比べて比較的多いくらいで、他の曜日はあまり変わらない。土曜日は仕事が休みなので、土日は分からない。きっとかなり閑散とした風景なのだろう。
 表を見ていると、同じように駅前ロータリーを見つめるもう一人の視線を感じた。視線の元を探ってみると、自分の前のテーブルに座っている女性のものだったが、それにしてもよく分かったものである。
 視線の先が同じというだけで、お互いの視線がぶつかったわけではない。しかも、こちらが彼女を見つめると、彼女もこちらを見つめる。
 視線が合ったのに、すぐに逸らしてしまった。
――まずかったかな――
 いくらなんでも後ろめたさがあるわけでもない初対面の人と視線を合わせて、目を逸らすと言うのは失礼だろう。せっかく視線が合ったのだから、会釈の一つでもしてしかるべきだった。もう二度と視線を合わせるなどできないと感じた。それが三ヶ月もの間はなしかけることもできずに、気にしていなければならなかった理由である。
 三ヶ月という期間がほとぼりを冷ますにちょうどいい期間だったかどうか分からない。だが、話しかけてみると彼女もまんざらでもなかったようだ。
「おはようございます」
 たった一言だった。
「おはようございます」
 と彼女も最初は一言を返してきた。だが、その視線は、
――待っていたのよ――
 と言わんばかりの視線に思えて、思わず真っ赤になった頬に手の平を当ててしまったくらいだ。彼女も同じような行動を取る。お互いに照れ隠しをしているようだ。
 会話が途切れてしまい、その日は挨拶だけだった。そしていつものように視線をロータリーへと向ける。
――おや? どこかで見たような視線だ――
 ロータリーへと向けた視線に見覚えがあった。明らかに先日までの漠然とした視線ではない。ロータリーを見つめるその目に輝きのようなものを感じたのだ。
 目は潤んでいて、朝日に光っているように見える。だが、朝日は白いにもかかわらず、彼女の瞳に写った太陽の色は、もっとオレンジ色に染まっているように見える。まるで夕日の輝きのようだ。
――夕日――
 子供の頃の記憶がよみがえる。
 耳には乾いた金属音、さっきまで香っていたコーヒーの香ばしさが、懐かしい工場の匂いへと変わっていく。嫌いな匂いではない。懐かしさの方が強かった。
 だが、それも一瞬、すぐにコーヒーの香りへと引き戻され、気がつくと彼女は伝票を手に持ってレジへと向っていた。その時に軽く会釈をしてくれたが、その視線は初めて見る表情だった。
 その日初めて話しかけたことで、お互いの気持ちが急激に接近したことは間違いのないことだった。
 しばらくは喫茶店でだけの付き合いだった。最初にデートに誘ったのも、初めて話しかけてから三ヵ月後、三ヶ月というのは江坂の中で一つの周期になっているようだ。
 そういえば仕事においてもそうだった。三ヶ月をめどに大きな仕事を覚えていくように心がけていた。学生時代に絵画サークルに所属していたが、その時も三ヶ月をめどに製作していた。ワンステップに三ヶ月かかることもあれば、完成に三ヶ月費やすこともあった。周期を感じるようになったのは、絵画サークルで活動をしている時からだったに違いない。
 学生時代に付き合った女性も何人かいたが、別れる時は江坂からということもあったし、相手から別れを告げられることもあった。理由に関してはハッキリとしないことが多かったが、今から考えれば、そのほとんどは周期が合わなかったことが一番の原因だったように思う。
 三ヶ月周期の江坂に対し、女性のほとんどは一ヶ月周期での考え方だった。
 女性の一ヶ月周期というのは分かる気がする。
「男と女は決定的に違うのよ」
 別れの時に言われたことだが、
「そうだね。肉体的に完全に違っているね」
「そう、だから、女性の身体ってデリケートなの。それに合わせてくれる男性でないとついていけないって女性は多いと思うわ」
 確かにそのとおりだと思った。だが、男性もデリケートではないだろうか。他の男性がどうなのかは分からないが、少なくとも江坂は自分の周期が三ヶ月だということを認識している。
「相手が何を考えているか分からない」
 女性から別れを告げられて悩んでいる友達もいたが、その理由のほとんどは周期が関係しているだろうという考えを信じて疑わない江坂だった。
「何が分からないんだい?」
「別れを言われた時の彼女の様子なんだけど、分かってくれないということが言いたいらしいんだけど、何を分かってあげないといけないか分からないんだよ」
 こればかりは、他人が話してもどうにもならない。男性自身、本人が自覚して周期を感じなければ相手の気持ちは分かるはずはない。
 これは他人事として見ているから分かるのかも知れない。もし江坂自身当事者であったら、本当に分かったかどうか、それも怪しいものだ。
 大学時代に重ねた女性との別れ、その理由の一端が、卒業間際になってやっと分かってきたのだった。
 周期という意識はもっと前から意識の奥にあったように思う。それを考えると行き着く先は小学生時代に遡る。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次