短編集94(過去作品)
そんな感情が中学高校時代の江坂の性格をかたどっていたのである。性格がうちに篭ってしまって、壁を作るのも当たり前というものだ。清水が釣りを教えてくれなければ、きっと精神的に押し潰されていたに違いない。
釣り糸を垂れていると、嫌なことを忘れられた。別に何かが変わるわけではないのに、寄せては返す波を見ているだけで、気分的に落ち着いてくるのだ。
「釣りって短気な人が好きになるみたいだよ」
と清水は言っていたが、なるほど、分かるような気がしていた。
その間も父の暴力は続いていたが、途中から精神的に暴力に対しての神経が麻痺してきたような気がしていた。いつも見ていると慣れてきたとでもいうのだろうか。本当は、
――こんなことに慣れてはいけないんだ――
と思っていた心の葛藤が、自分を空に閉じ込めていたのだ。
慣れてしまったのだから、殻を壊せるかも知れないと思ったが、殻だけは壊すことができなかった。ある意味、最悪の形に進んでいたのである。
だが、そんな精神状態から抜け出すきっかけは、父親の死からだった。
――バチが当たったんだ――
と思ったものだ。
母親はさぞやホッとしているだろうと思っていたが、江坂の考えとは少し違っているようだった。
交通事故に遭っての即死だったのだが、あっという間の出来事で、最初は母親も江坂も何が何だか分からず拍子抜け状態だった。最初に我に返ったのは江坂の方で、
――これでもう精神的に苦しめられることはない――
と感じ、自分の中の殻が音を立てて壊れるのを感じていた。
母親を見ると、まだまだ精神的に落ち着きを取り戻せない。女性ではあるし、何しろ一番苦しめられていたのだから、元に戻るまでにはかなりの時間を要するだろうということは分かっていたつもりである。
――こんな時こそ、自分がしっかりしないと――
と感じたものだが、母親は思ったより気丈で、父親の葬儀や法事に関しては葬儀屋と相談しながらテキパキとこなしていた。
――いざとなると女性って強いんだな――
と感じたものだ。
四十九日の法要が終わる頃には母親もしっかりしてくるだろうと思っていた。だが、実際は逆だった。
法要が過ぎると今度はまた抜け殻のようになってしまい、自分から何かをしようという気力が失せてしまったようだ。いつも父親の仏壇に手を合わせることだけは欠かさなかったが、家事に関してはあまりこなしてはいなかった。最低限のことだけはしていたが、完全にやる気をなくしてしまっていた。
――本当に大切な人を失った未亡人――
誰が見てもそうだったのである。
そんな母親に話しかけることもできず、ただ様子を窺っていた。
――一体何と言って話しかければいいのだろう――
父親の暴力を受けていた母親を横目に見ながら、怖くて震えていた息子である。そんな息子を母親がどんな気持ちで見ていたか、考えるだけでも怖い。もちろん、こんなことを他の人に話せるわけもなく、今まで父親に感じていたトラウマが、父親の死によって解消されたと思ったら、今度は、父親の死によって、母親からの視線がトラウマになってしまうなど、考えてもみなかった。
大学でたくさんの友達ができた。表では普通の大学生として、それまでの暗かった性格が一転して、明るい性格になっていた。だが、
「江坂君は時々黙り込んでしまって、あらぬ方向を向いて考えごとをしているように見えることがあるけど、何か悩み事でもあるのかい?」
と言われたことがあった。
言わずと知れた母親に感じたトラウマの影響だろう。
「そんなことはないよ。気にかけてくれてありがとう」
ここまで言うのがやっとだった。
――その時、自分はどんな表情をしているのだろう――
と思うが、言葉も少なく、それ以上話題を膨らませようとしないだけでも、普段の江坂とは十分に違っている。それだけに敏感な人は、
――これ以上、この話題に触れてはいけないんだ――
と感じているに違いない。
それにしても母親の心境が分からない。元々暴力はどこから来たものなのかが分からないからだ。父親に対してのイメージは、暴力を奮っている時が強かったが、死んでからしばらくして思い出すと、暴力を奮っていた頃に比べると、塾から遅くなって帰ってきた時の背中が大きく見えたようなイメージが強い。あまり感情的にならないイメージである。一体本当の父はどっちだったのだろう?
父が死んでからしばらくは放心状態の母親だったが、一年もすれば仕事を見つけてきて普段の生活を取り戻していた。二十歳になった江坂も、いよいよ自分も大人の仲間入りとばかりに、精神的に大人を意識するようになっていたのだ。就職について考え始めると、それまで女性と付き合うことのなかった江坂に彼女ができたのも、その頃だった。
――自分から欲しいと思っていた時はできないのに、考えなくなった途端にできるなんて皮肉なものだな――
と感じたが、それだけ江坂の性格が表に出やすいのかも知れない。
――彼女がほしい――
という感情が表に出てしまえば、女性は引いてしまうだろう。大学生の男子で、彼女がいない人が、彼女をほしくないなんて考えにくいことだ。さりげなく爽やかな方が女性も安心するというものである。
だが、江坂自身、性格が表に出やすいことは分かっていた。それを長所だと思っているので、治そうという意識もなかった。ただ彼女ができないことだけは気になっていただけである。
彼女ができてしまうと、それまで見えていた世界と違う世界が目の前に開けてきた。
――世の中ってこんなにも明るいものなのか――
と感じ、さらには、甘い匂いを感じるようになっていた。それまでも何か匂いを感じていたはずなのだが、それがどんな匂いだったか、彼女ができた瞬間、すっかり忘れてしまっていた。それまでが遠い過去のように思えてきて、それは意識してそれまでの精神状態を記憶の奥に封印しようとしているからに違いない。
大学を卒業し、就職までは決してスムーズな道のりではなかったが、留年することも就職ができないということもなく、危ないながら何とかなっていた。
今の時代、大企業に就職できたからといって安泰ではない。リストラの嵐が吹き荒れ、会社自体の屋台骨もしっかりしているようで、いつ倒産するか分からない。ある意味地元で地道に経営している地元大手と言われる会社の方が、経営的には安定しているのかも知れない。
江坂が就職したのもそんな会社だった、
全国規模ではなく、地域密着の会社、地元では大手と言われるような会社で、競合する会社の中では経営内容は安定している方だろう。
就職して一年目は無我夢中で仕事に打ち込んだ。まず仕事の内容を覚えることが先決で、それに一年くらいかかった。本当は研修期間の半年くらいで覚えるものだと言っている人もいたが、実際の実務に入ればそれからまた半年はしっかりしていないと、会社内で自分の度台を築くことなどできないだろう。
「三日持てば三ヶ月、三ヶ月持てば一年、一年持てば十年」
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次