小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

短編集94(過去作品)

INDEX|21ページ/21ページ|

前のページ
 

 どうしても行き止るのは熟からの帰り、空白の数時間である。その間に何かがあったように思うのだが、今から思えば、夢だったのではないかと思えるほど、遠い過去になりつつあった。大学を卒業して社会人になる。その壁は大人になるための壁であって、自分で意識しているよりも厚いものだったのかも知れない。
 高校を卒業した時も江坂の中では大きな転換期だった。転換期というのを最初に意識した時だったことは間違いない。だが、本当にそうだったのだろうか? それまでにも転換期があったように思う。
――意識していないようで意識していた――
 父の死が思い起こされる。
 何かが変わったとすれば、最初はその時だったかも知れない。父の暴力が止んだのは、熟からの帰りに遅くなってすぐだった。それまでに感じたことのない父親の威厳を初めて感じ、それだけに父親の威厳というものに対し、特別な感情を抱いたのかも知れない。
 江坂が結婚したのは、三十歳を間近に控えた頃だった。あれから六年が経ったが、子供もできず、気持ち的にはまだ新婚である。
 時々妻が何かを見つめているような視線を見せることがある。休みの日など、昼過ぎになると喫茶店に出かけることがあるが、必ず妻もついてくる。
「私、昼下がりの喫茶店で本を読むのが好きなのよ」
 といって、窓際のカウンターに座って、お互いに本を読んでいる。
 対面式のテーブルでもいいのだが、お互いに本を読みながら表を見るのが好きなので、カウンターに座ることが多い。
 今までに付き合った女性とも喫茶店で時間を過ごすことが多かった。しかし、今が一番落ち着いた時間を過ごせているように思う。きっと父が母に奮っていた暴力を目の当たりにして、その形相がトラウマとなって残ってしまったことから、結婚する相手は自分のことを分かってくれる相手がいいと思っていた。妻はそんな江坂の思いを十分に満たしてくれていた。
 結婚とは時期もあれば縁もある。どちらかが狂えば、どんなに相性が合っていても、出会えるはずなどない。
――父と母はどうだったんだろう――
 落ち着いてからの父は、まるで新婚に戻ったかのように母を大切にしていた。それは死ぬまで変わらずであって、きっとそのまま生き続けていても、永遠に新婚夫婦であったに違いない。根拠があるわけではないが、一人になれる時間を父は見つけたのだろう。
 江坂自身も、一人になれる時間を見つけてから落ち着いてきた。それまではいつも何かに怯えていて、怯えがあるだけに誰かそばにいないと不安だった。そばにいると、その時だけは安心なのだが、一人になる不安が付きまとって、結局一人になることを怖がってしまう。完全な悪循環であった。
 誰かと一緒にいる時間を本当に大切にできるようになるまで費やした時間は、決して無駄ではなかったはずだ。紆余曲折を重ね、見つけた時間を大切にできる自分を誇りに思う。
 昼下がり、本を読んでいる妻が顔を上げて表を見ている。
 目が光ったのを感じた。それはかつて川原で見かけた女性の目が光ったのを思い起こさせるものだった。その時の彼女とは似ても似つかない妻ではあったが、目が光った瞬間だけ、同じ人に見えたのは気のせいだろうか。
 どこか遠くで乾いた金属音が規則的に響いているようだが、次第に音が消えゆくのを感じた……。まるで灰色の空に煙突から吐き出された煙が消えていくように……。

                (  完  )





作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次