短編集94(過去作品)
と感じたほど、父は別人のようになっていた。だが本当にそこまで考えたのは、母の死によって父との絆が以前にも増して深まったことを意味していた。皮肉なことではあるが、母に感謝しなければいけないだろう。だからしばらくは父を黙って見ていたが、もう見ていられなくなっていた。
しかし、それも長くは続かなかった。ちょうど半年くらいであろうか。気がついた時には大きな溝が二人の間にはあったのだ。
腑抜けとまではいかないが、完全に職人ではなくなってしまった父を見ていると、達也までおかしくなりそうだ。父と子、これから二人で生きていかなければならないのに、こんなところでへこたれているわけにはいかない。
一年が経ち、二年が経った。後から思えばあっという間だったように思えるが、その時は、
――一年がこんなにも長いとは――
と感じていた。それは父親も同じだったろう。次第にお互いに話をしなくなり、達也も学校から帰ってくると部屋に閉じこもって出てこなくなった。食事の味を感じない毎日がこれほど長いものだとは思いもしなかった。
気を遣っているつもりだったが、必要以上の気遣いはお互いにストレスと誤解しか生まない。そのことに気付いて、やっと一年という期間が短いものだということを知ったように思う。
達也が小学校四年生くらいの頃だろうか、父親が前のような職人肌に戻り、達也に話しかけるようになっていた。仕事以外で何かが変わったのだということを最初は分からなかったが、明らかに今までの父親ではなかった。小さい頃に見た父親の凛々しさとは少し違い、明るさがあるのは結構なのだが、何となく嫌な予感を抱いてもいた。
再婚の話をし始めたのは、元気になり始めてしばらくしてからだった。
「お父さん、再婚しようと思うんだが」
達也を母親の遺影の前に座らせて、その横には自分が鎮座し、遺影を見上げながら呟いた、
「母さん、許してくれるね?」
達也は父親の表情を見ながら、遺影を見返すと、そのことに意義を唱える気力は失せていた。
――もう、僕が何を言っても一緒なんだ――
と感じたのは本当に子供心にだろうか?
それから一ヵ月後に義母が家に入ってきた。それまでに一度表で会っているが、その時は普通のOLという雰囲気で、年齢が二十八だと言っていたが、さらに若く見えた。しかし、家に初めてやってきた時に見た義母は、やはり歳相応に見えたが、それも最初に見た時が若く感じたからで、かなり大人しい女性に見えたのはビックリした。
最初に会った時は、しっかりと化粧を施していたのだが、家に来た時は化粧をしているのか分からないほどの薄化粧だった。
――母親というイメージを出したいのかな――
とも感じたが、もう一つ大人しく見える原因は、彼女の足元で見え隠れしている一人の女の子の存在だった。
「里美、挨拶しなさい」
達男を見る目は輝いていたことで、それほど歳には見えなかったが、子供が足元でうろうろしている姿を見ると、さすがに母親の影を見てしまう。
自分の母親と比べることなど絶対にできっこない。想像が及ぶわけもないし、第一想像したくない。何よりも自分の心の中に生き続ける母親を冒してはならないという気持ちが強いのだ。
足元でうろうろしているように見えたのは、実は恥ずかしがっているのだと気付いたのは、母親に諭されて挨拶をした時である。
「こんにちは」
たったそれだけだったが、言葉尻もしっかりしていて、緊張感を感じさせなかった。
――きっと母親もしっかりした人に違いない――
それまで感じたことのない「オンナ」を、何と義母に感じてしまうとは、その場で一番恥ずかしい思いをしていたのは、達男だったに違いない。
それが里美との初対面だった。
その時は里美に対する意識は何もなかった。妹と言われてもピンとは来なかったくらいである。もっとも兄弟姉妹のいない達男にとっていきなりできた妹というのは複雑な心境だ。
絶対にできるはずのない妹だったからである。父が再婚を言い出すなど達男の頭の中にはなかった。想像の許容範囲を超えていたのだ。しかし、
――再婚しようと思っているんだ――
という青天の霹靂にも似た事実にも、それほど驚きはなかった。潜在意識には入っていたのかも知れない。
そういえば夢を見たようにも思う。後から思い出すのでそう感じるだけなので、ひょっとして妹ができてから見たのかも知れない。夢の内容は、突然にできた妹に対してだった。
内容は対して覚えていないが、きっと喜んでいたように思う。だが、夢の最後には妹の存在はなく、自分に彼女ができるところまでだった。妹の存在を思い出した瞬間、夢が覚めてしまった。
夢とは肝心なところで冷めるものである。すると、彼女ができて妹の存在を思い出そうとした時が何か肝心な時だというのだろうか?
夢とは潜在意識が見せるものでもある。自分の意識していないことを見ることはありえない。妹という存在、そして彼女という存在を同時に意識することはできないのかも知れない。
母親はテレビ局の仕事に忙しかった。あまり家で妹と一緒にいることはなく、一緒にいる時間が一番多いのが達男になってしまったことは必然だろう。里美も達男になついている。どこに行くのでも一緒についてきて、達男が友達と空き地で遊んでいても、それを遠くから座ってじっと見ているだけだった。
「里美、里美も、お友達と遊んでいいんだぞ」
「お友達はいないもん。お兄ちゃんが遊んでいるところを見ているだけで楽しいからいいの」
心配な反面、嬉しかった。実は達男も自分の目の届くところに妹がいるのが一番安心だったからだ。
――友達と一緒に遊んでいる里美の姿なんて思い浮かばない――
これが本心だった。
一緒に空き地で遊ぶ友達も、里美の存在を気にしながらも、誰からも何も言われない。見られていることが自然に思えるのだろう。
達男が一人になりたくない理由はもう一つあった。一人になってしまうと、淫らなことを考えそうで怖かったからだ。相手はもちろん義母、オンナを感じてからというもの、ずっと里美がそばにいるので感じることを抑えられていた。もし一人になったら、一体どんなことを考えるのかと思うと、想像しただけで胸の動悸は治まることはないだろう。
里美が義母に似てきたのを感じるようになったのはいつからだっただろう? 身体の線が次第にオンナに変わっていき、瞼がくっきりと二重になっていく。さらには、声も二オクターブほど高くなり、まさに義母にそっくりになってきた。
里美の変化を一番気にしているのは達男だった。それは兄としてではなく、男としてである。一人の男性として義妹を見ていた。そのことを最初から分かっていたのだ。
義母に対してあれほど罪悪感を感じていた達男だったが、義妹である里美にはそれほどの罪悪感を感じていない。自分が成長期の真っ只中にいて、あまりにも急速な身体の変化の中で意識が薄れていったのかも知れない。あるいは、義母に一度感じた罪悪感、二度目は感覚が麻痺しているのかも知れない。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次