短編集94(過去作品)
そんな会話をした日から、彼女のことが気になって仕方がなくなった。翌日も彼女が先にいて、同じように寝転がって空を見ている。
「こんにちは」
この一言が言えなかった。昨日までなら言えたかも知れない。実際に会話だってしたではないか。だが、その会話にしてもかなり前にしたように思えてくるから不思議だった。彼女の話の内容、そして声もハッキリと覚えているにもかかわらず、無表情で空を見上げている彼女から、昨日のセリフや声の感じが浮かんでこない。まるで別人のように感じるのだ。
――だから余計に話しかけられないんだ――
別人を見ているという気はしてこない。毎日同じ場所で、同じように空を見上げている。だが、話しかけようとすると自分がイメージしている人とは違う人である。自分の中でいいイメージだけを膨らませてしまうのは、江坂の悪い癖ではないだろうか。
気まずいわけではないが、二人の間にある実際の距離よりも遠いものを感じた。途中に壁があると言ってもいいくらいで、重たい空気が支配していた。だが、嫌な空気ではない。むしろ懐かしさを感じる空気で、色が黄色掛かってくることに気がついていた。
黄色という色はまわりのものをモノクロに見せる効果がある。赤いものでも青いものでも、黄色掛かると色が一定の変化を示す。
――灰色に近くなるのかな――
他の人がどのように感じているか分からない。しかし少なくとも江坂にはそう感じた。今までに感じていた黄色という色への不思議な感覚、その時、不思議な感覚の断片が解明されたような気がしていた。
寝転がって彼女の横顔を見ていると、正面から見た時に感じた灰色の雰囲気が変わってきた。
横から見ている彼女の目が輝いているように見える。集中して何かを見つめている目だ。果てしなく広がる青い空の彼方に何があるというのだろう?
――ただ虚空を見つめているだけにしか見えなかったはずなのに――
彼女の横顔の遥か向こうに見えていた真っ青な空が、赤く変わってくるのを感じた。彼女のいる方向は、江坂から向って東側に当たっている。赤く変わってくるとしても、それは夕焼けであるわけはないのだ。
――では一体なんだというんだろう――
じっと見つめていると、赤く染まった空に写った彼女のシルエットが灰色に変わってくる。表情が分からなくなり、目の輝きだけが異様に見えている。またしても、
――これは夢なんだ――
と感じ、しばらく瞼を閉じていた。
瞼の裏は真っ赤である。眩しいと思って目を閉じた時と同じように真っ赤である。
目を開ける寸前に、ガラスが弾けるような乾いた音がしたのは気のせいだろうか。風鈴のように余韻の残る涼しげな音、目を開けるのを一瞬躊躇ったくらいだ。
――この音をずっと聞いていたい――
と感じたからだろう。
目を開けると、真っ赤な色も透き通るような雲ひとつない真っ青な空も、どこになかった。あるのは灰色に染まった空だけで、湿気を帯びた重みを感じさせる。
乾いた音とは程遠い重たい空、目を開ける前から分かっていた。何でも二つに分けて考えるタイプである江坂にとって、真っ青な空と、灰色に染まった空は一見共存しえないものに感じられた。だからこそ夢なんだと感じたのであって、夢だからこそ、思っていた通りの展開が目の前で繰り広げられている。
目を開ければ灰色の世界が広がっていることも最初から分かっていたこと。ただ普通なら信じられないことなので、自分の中の常識が邪魔をしているだけだったのだ。常識を感じる自分も本当の自分、そして、夢だと思って割り切ろうとする自分も本当の自分である。
気持ちの中での葛藤は、結局、
――夢なんだ――
と感じる自分が表に出てきた。翌日、もう一度この場所へ来るが、いつもいるはずの彼女はいない。
――待っていても来ないかも知れない――
と感じていると、それから数日経っても来なかった。そのうちに江坂も土手に近寄ることをしなくなっていた。
世の中の高度成長時代の終わりは煙突から煙が消えたことだが、江坂にとっての本当の終焉は、この土手に来なくなった時だった。
大学に入ってからしばらくして、再びこの土手を訪れた。
景色だけは変わっていなかった。工場は営業をストップしていたが、跡地はそのまま残っていた。永遠に煙を吹き出すこともなくひっそりと佇んでいる煙突。まさしく高度成長時代の悪しき遺産とでもいうべきだろうか。
それでも江坂にとっては懐かしい光景には違いない。この場所には半信半疑でやってきたが、煙突が本当に残っているなど、万に一つの確率だと思っていた。
それが本当に残っていたのである。
小学生が大学生になるまでというのは、成長期においての時間なので、江坂にとって相当の時間だったように思っていたが、
――この数年なんて、世の中から比べればあっという間のことだったのかな――
と感じた。
なるほど、ここに来るまでは、かなり長く感じた期間だったが、実際にここから煙突を眺めてみると、まるで昨日のことのように思い出すことができる。隣を見ればいつもいた女性が真っ青な空をバックに煙突を見つめて目を輝かせているのが見えてくるようだ。
その日にどうして土手を訪れようと感じたのか、あれは父の一回忌の法要があった時だった。
大学に入学してすぐに父が死んだ。それまでかなり苦労を重ねてきた母もそれまでまだまだ若いと思っていたが、父が死ぬと目に見えて老けてくるようだった。
江坂の性格が変わったのは、父親が死んでからだった。大学に入った開放感から性格が明るくなったのは間違いないことだが、それだけではない。父親の死が少なからず影響を及ぼしていることを江坂は自分で分かっているつもりだ。
江坂が感じていた父親に対してのイメージ、それは自分の性格を表しているのではないかと感じたことが何度かあった。父親の呪縛とでもいうのだろうか。睨まれるとかなしばりに遭ったように何も言えなくなるほどの威厳を感じていたのである。
母親が父親の威厳を一番肌で感じていたことだろう。それは文字通りのことであり、いつもそばにいたのだから当たり前と言える。
小学生の頃、熟からの帰りが遅くなった時、父親には何も言われなかった。背中を向けてテレビを見ているだけだったが、父親は何事にも無関心な性格の持ち主だと思っていた。だが実際、その考えは間違いだった。それから父親の性格は一変してしまった。
それからの父を江坂はまともに顔も見れなくなってしまった。一度まともに見てしまったが、その時の鬼の形相は今でも忘れることができない。
父は事あるごとに暴力を奮うようになった。相手は母親に対してである。決して江坂に対して暴力を奮うことはなかったが。江坂にしてみればいつ自分に降りかかってくるか分からない状況で、同じ屋根の下で暮らさなければならないのである。
確かに一番可哀相なのは母親だろう。だが、いつもビクビクして生活をしなければならない江坂も相当に精神的な面できつかった。それを分かってくれる人は誰もいないはずである。なまじ暴力を奮われる母親に対しては同情も寄せられるだろうが、実際に手を下されていない自分に対して、誰も気がつくはずはないからである。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次