短編集94(過去作品)
――大学というところは何でもありなんだな――
いろいろな性格の人間が集まってくるところ、それが大学である。今までは性格の違う人とは決して話をしようともしなかったのに、大学に入ると急に話をし始める。それまでの競争意識からの解放が、爆発的なエネルギーを生んでいるのかも知れない。
爆発的なエネルギーを江坂は感じていた。小学生時代がつい最近に感じられた。絶えず成長してきたように感じているが、ふと我に返ると、中学、高校時代が自分にとってなんだったのか分からない。一体何を考えていたのか、昨日までのことなのに、よく分からない。
苛められっこだった小学生時代、これも暗黒の時代だったが、先々を考えてイライラを抑えきれずに人との付き合いを絶ってしまっていた中学高校時代、どちらも大学に入って考えればあまりありがたい時代ではなかった。
高度成長時代だった小学生時代、工場から臭ってくるゴムの匂い、そして金属音、この二つだけが異常に意識の中にある。
工場を真正面に見上げる川原の土手で、よく灰色の粉塵を吹き出す煙突を見ていたものだった。
粉塵が空の色に変わるまでをじっと見続けている。今でも夢に見るくらいだ。腕を頭の後ろで組んで枕にしてボンヤリと煙突を見ている。まったくの無表情だという意識を感じることで、何も考えていない自分を感じるのだ。
――ここで、こうしている時だけ、他のことを何も考えずにいられるんだ――
イライラしないで済む唯一の時間といってもいいだろう。中学に入って清水と釣りをするまでは、イライラしないで済む時間は、煙突を見ている時間だけだった。
夢で見ている時に、必ず川原の少し離れたところで同じように寝転がって煙突を見ている人がいた。その人は女性だった。小学生の江坂から見ると、かなりお姉さんに思えたが、高校生くらいだったかも知れない。
相手は江坂と同じように腕を後ろで組んで枕にしている。スカートを穿いているのだが、片方の足を折り曲げて見ている恰好は、小学生の江坂から見ても悩ましく感じられた。まだ女性というものに興味のなかった頃だったはずなのに、初めて女性を意識した瞬間だったのかも知れない。
小学生の頃見ていた土手に、確かに女性が来ていることがあった。だが、意識をしなかったのは、女性を意識するほど成長していなかったからに違いない。
――男でも女でも他人は他人――
と感じていた。だが、その思いが中学高校時代の江坂を悩ませていたのは皮肉なことだった。
先々を考え、人から孤立する道を選んでも、成長過程における思春期の精神状態を避けて通ることはできない。
中学生になっても、川原で工場の煙突を眺めることだけは止めなかった。
――本当に一人になれる時間――
それが煙突を見ている時間であった。しかし、時代は確実に変化していった。高度成長時代が終わりを告げ、工場の閉鎖が決まったのだ。付近の住民による運動がそこにあったことは間違いないが、工場側が少しずつ人件費の問題等で、利益の出る工場を残して後は閉鎖となったのだ。閉鎖される中にあったのが川原から見える工場であったことは言うまでもない。
煙突から煙が消えた。まわりの人ほとんどが喜んでいた。反対運動が実を結んだからだ。特に風下に住んでいる人にとっては死活問題。実際被害を被っている人も多いはずだ。
江坂は煙の消えた煙突を、いつもの川原から見ていた。
――空があんなに綺麗だったなんて――
今さらのように感動していた。
灰色の雲を飲み込んで、どこまでも透き通るような青空が続いている。悪いものはすべて青空が飲み込んでしまったのだろう。最初は綺麗な青空に感動したものだった。
少し離れたところに、いつも来ていた女性がやはり同じところから見つめている。どんな気持ちで見つめているか聞いてみたい気がしたが、視線は空に釘付けになっていて、話しかけられる雰囲気ではない。
その翌日、いつもより遅い時間に川原に横になった。青空に少し赤み掛かった空を見ることができた。
――夕焼けなど灰色の空では考えられないことだったな――
と思いながら見つめていたが、空が次第に真っ赤に変わっていくのを見ていると、
――初めて見たような気がしない――
と思えてならない。
――どこか他で見たのかな――
とも感じたが、襲ってくる身体の気だるさは、ここで感じたものに違いなかった。まさにその時に感じた気だるさと同じで、
――夕焼けを見ると条件反射で身体に気だるさを感じるのではないか――
と思えるほどであった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。夕焼けの美しさに魅入られていて、時間が経つのを忘れていたが、気がつけば夕日は西の空にすっかり沈んでしまっていて、夜の帳が近づいていた。
――何かが違う――
確かに綺麗な空になった。今まででは考えられないほどの綺麗な空だ。誰もが望んでいたことであって、江坂も例外ではない。
だが、何かが違うのだ。
寂しさを感じる。灰色の空に吸い込まれる煙突からの煙。じっと見つめているだけで時間を忘れてしまう煙を見ることができないと考えただけで、涙がこみ上げてくるのだ。
煙に対してそこまで思い入れがあったはずもない。煙を見ながら自分のためになる何かを想像し、それが現実になったわけでもない。煙を見ながら何か楽しいことを想像していたのは間違いないことだが、それも身体を起こせば現実に引き戻され、すぐに忘れてしまうことだったはずだ。だが、それでもよかった。少しの間だけとはいえ、自分の世界を作ることができたからだ。
――自分の時間――
灰色の空に魅入られていたのは、自分の時間を持っていたからだ。灰色の空がなくなってしまうのは、自分の時間への扉がなくなってしまったことを意味する。一抹の寂しさが襲ってくるのも無理のないことである。
次に訪れた時、隣で横たわっている女性が先に来ていた。
――これは夢なんだ――
と感じたからだろうか、おもむろに彼女の隣へ行って、すぐそばに横になった。最初は声を掛けることもなく煙突の向こうに広がる青空を眺めていたが、
「あなたには何が見えますか?」
と彼女の方から話しかけてきた。
「吸い込まれそうな青空が見えますよ。綺麗ですね」
「そうね、綺麗ね。何でも吸い込んでしまいそうなくらいね」
相変わらずお互いに煙突の向こうを見ながら話している。
「灰色の空を吸い込んでしまったのかも知れないですね。あっという間に真っ青な空になっちゃいましたからね」
「どちらが本当の空なのかしら?」
「今の、真っ青な空じゃないんですか?」
「そうよね。でも、私には灰色の空が見えないだけで、存在しているように思えてならないの。おかしいでしょう?」
言われてみれば、江坂も目を瞑れば灰色の空を思い出すことができる。あれからかなり日にちが経っているはずなのに、ハッキリと思い出すのだ。同じ空を見て、これほど印象深い真っ青な空が瞼の裏に焼きついてしまえば、灰色の空は過去のものとして、思い出すことは困難なはずである。下手をすれば、永遠に思い出せないかも知れないほどである。彼女の言うように、本当に存在している気がしてきた。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次