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短編集94(過去作品)

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 時計を見ると十一時近くなっていた。
「どうしたの、こんな時間まで。一体どこにいたの?」
 と大きな声を発したが、それも一言だけだった。子供の顔を見て安心したのか、完全に緊張の糸が途切れてしまって、それ以上は声も出ない。息も絶え絶えに、表情には怒りとも安心とも取れないような複雑な心境が表れていた。
 当の江坂の視線は、母親に向けられているのではなく、父親を見つめていた。それが母親の緊張の意図を途切れさせた遠因にもなっているのだが、父親は相変わらず寝転がってテレビを見ているだけで、一度も江坂の方を振り返ろうとしない。
 江坂自身も困っていた。熟を出て今まで、どこにいたのか家に帰りつくまでは覚えていたのだが、家に帰ってきて母親の顔を見た瞬間、どこにいたのか頭の中が真っ白になっていた。しつこく母親に追求されてしまっていたら、
――なんて答えたらよかったんだろう――
 としか考えられない。記憶にないものをどう答えていいかなど分かるはずもなく、何よりも事情を忘れてしまった自分に苛立ちを覚える。
 母親は、江坂に似て、割り切って物事を考える方だ。だからこそ、言い訳など通用する相手ではない。そのことはもちろん江坂自身が一番分かっているはずである。
――ひょっとしてお父さんが一番事態を分かっているのかな――
 と思えるほど落ち着いている。
 元々父親がそれほど暢気なはずもなく、しかも子供のことをそこまで全幅の信頼を抱いているわけでもない。どちらかというと小心者に見えていた父親が、その時だけは頼もしく見えるほど、父親に対して複雑な思いだった。だから、帰ってきてすぐに父親の意外な様子に驚いて視線を逸らすことができなかったのだ。
 母親には悪いが、そのおかげですぐに話も聞かず引き下がってくれたのはありがたかった。
 江坂はそれまで自分の性格は暢気な方だと思っていた。
 人に何と言われようとも、ヘラヘラ笑っているようなところがあった。
「お前はそれで悔しくないのか?」
 と、友達の方がイライラするくらいだったのだ。
「別に……」
 どうして悔しくないのか自分でも分からない。テレビなどで苛められっこを見ていて、自分のことのように苛立つことはあるのに、自分のことだとなぜか怒りを感じない。他人事のように感じているのだろうか。
 保守的な考え方なのかも知れない。
――下手に怒ってもどうなるのもでもない。放っておけば、そのうちに相手が嫌になるだけだ――
 大人の考えではないだろうか。
――相手はバカな連中だ。バカを相手にしても仕方がない――
 立派な考えだ。自分が悔しさを抑えればそれだけのことなのだ。
 この考えは、父親からの遺伝だと思っていた。何を言われても怒ったりしたところを見たことのない父、それだけで尊敬に値する父親だった。だから熟で遅くなった時にまず父親を意識し、怒りを一切感じていない背中を見ていて、その背中から視線を逸らすことができなかった。それだけ江坂にとって父親の威厳は絶対だったのだ。
 熟の帰りが遅くなった時、何かを感じたように思えた。それからの江坂は人がビックリするほど落ち着いていた。
「お前、最近冷たいな」
 とまで思えるほどの落ち着きに、一番驚いていたのが、親友の清水将人である。
 清水とは、小さい頃からの幼馴染で、よく公園や空き地で一緒に遊んだものだ。友達も短期間に変わった時期があったが、いつまでも一緒だったのは清水一人だけだった。それは江坂に限らず清水にしても同じことで、
「俺たちは親友だよな」
 と話してくれたものだ。本当は嬉しいのに、
「ああ」
 と一言だけしか返せなかったが、照れているだけだと分かっている清水は、
「分かっているさ」
 と何でもお見通しだった。
 そんな清水にして、
「最近冷たいな」
 と言わしめたのはなぜだろう。江坂自身、自分でもよく分からない。勉強が好きになって熟に通うようになってから少し距離ができたのは否めないが、それだけで清水に冷たいという言葉を言わせるようなことはないだろう。
 人を避けるようになって、孤独感という言葉を感じるようになった。清水以外は完全に避けるようになっていた。当の清水を見ていても同じだ。江坂以外を避けているように思える。
 そんな中、江坂と清水も、それぞれを避けることがある。しかし、偶然なのか、お互いに避けようとしている時である。だから、お互いに避けあっているという意識はないようだ。
 清水という男、江坂とは性格的に似ているというわけでもない。どちらかというと短気で、いつも何かにイライラしていて、愚痴をこぼしている。江坂のように冷静な人から見れば本当は避けたいのだろうが、なぜか江坂だけは避ける気がしない。相手が清水であれば少々のことは許されると感じるのだ。
 また清水は何でも割り切って考えられる性格でもない。決断するにも最後まで迷うのはいつも清水だけだった。
「あんたは本当に決断力がないわね」
 と、よく母親から言われていたが、最後まで考えるだけに、出した結論に間違いがない。そこは尊敬すべきところであろう。
 だが、そう考えてみると性格的に矛盾を感じる。短気でいつもイライラしている人が決断する時だけは冷静になれるものだろうか?
 一度清水に問いただしてみたことがあったが、
「俺は釣りが趣味なんだ」
「釣り?」
 不思議なことをいうものだ。話をはぐらかしているのだろうか。
「釣れるまでじっと待っているから、釣りをする人は気が長いと思っているだろう?」「ああ」
「だけど釣りが趣味だって人は、案外短気な人が多いんだ。不思議だろう? 俺はそれを聞いて思わず自分を思い返して吹き出したものだよ」
 と言ってニコニコしている。表情はしてやったりの顔になっていた。
 いつも冷静で、落ち着いて見られる江坂だったが、いつ頃からだろうか、いつもイライラするようになっていた。物事の先々をいつも考えているところがある江坂が、先を考えると、どうしてもイライラせざるおえないのだ。
 それはある時期が境だった。
 何か事件があったというわけではない。年齢的なものなのか、それとも、先々を見ている時、一番先に見えた何かが、自分にとって限界を感じたのかも知れない。いずれにせよ、自分のまわりの連中が急に程度が低く見えたのは間違いなかった。
――自分だけが先走っても仕方がない――
 分かっているつもりだったのだが、どうしてもまわりを見ていると暢気に感じられて仕方がない。普段はそんな連中と話もしたくなく、露骨に嫌な顔を見せるようになった。もっとも元々からあまり人と話すことのなかった江坂なので、それほど目立って変わったように見られていたわけではなかった。
 ただ、他の人と確実に大きな壁を作ってしまったのは間違いない。目に見えていなかった壁を見えるように変えてしまったと言ってもいいだろう。そんな江坂にとって、もはや他人との付き合いは煩わしさしかなかった。
 中学に入学してから高校を卒業するくらいまでの江坂の友達と言えば清水だけだった。大学に入学すればそれまでと打って変わって友達がたくさんできた。
 考えが変わったわけではない。新しい考えができただけである。そう思いたかった。
作品名:短編集94(過去作品) 作家名:森本晃次