短編集93(過去作品)
「お父さんの顔に泥を塗るようなまねだけはしないでね」
というのが口癖だった。エリートサラリーマンの父親に敬意を表しているのだろうが、皐月の性格からすれば、怒られている時も結構冷静だっただろう。
父親の顔に泥を塗るなんて発想は、当事者である皐月のことよりも父親の体裁を先に考える母親を見ているのがたまらなかったのだろう。
しかも内容としては雄大の親ならその程度のことは大目に見るだろうということが多く、妥協というものを知らない家庭のように思える。
――完璧主義者なのかも知れないな――
完璧主義者の父親にずっと寄り添ってきた母親、いつも父親の顔色を見ながら生活していたのだろう。娘の気持ちを考える余裕もないくらい、家庭内に完璧さが溢れていたに違いない。
――息苦しいことだろうな――
自分の家がそんな状態なら、それは帰りたくなくなって当たり前だ。家にいて両親の顔を見るより、進学塾にいたり、ファーストフードの店のテーブルで一人勉強している方が気が楽である。
「私ね、将来のために勉強していたんじゃないの。好きだからしていたのよ」
という言葉にウソはないだろう。
大学入試だって、大学から社会人へのステップ第一に考えていたわけではなく、
――せっかく勉強したんだから、自分の実力が知りたい――
という思いの方が強かった。さすがに勉強していただけあって、ほとんど合格した。大学に入ってからの皐月を知らないが、今の皐月を見ていて、それほど変わったとは思えない。友達もいたかどうかすら疑問である。
「大学って、いろいろな人がいたもんね」
「そうね。私にもお友達は結構できたわ。でも、途中で減っていったの。私と考え方が違うのかしらね。残ったのは親友といえる人たちばかりだったわ」
大学時代、果てしなく友達を増やそうと考えた雄大とはだいぶ考え方が違う。
――大学とは自分を変えてくれるところだ――
と思っていた雄大である。
高校時代までの自分が決して好きではなかった雄大は、大学生活に他の人以上に希望を持っていたのかも知れない。遊びたいと思っていなかったというのはウソではないが、高校時代まで自分の中で燻っていた何かおかしなイメージを払拭したかったのだ。
皐月の場合、
「高校時代まで自分をオブラートに包んでいたので、何とか開放してあげたいって思ったの。もう大学生になれば親を気にしなくてもいいはずだしね」
遊ぶことよりもアルバイトに勤しんでいた。もちろん、勉強もしていたので、成績はいつもトップクラス、自分を開放させたいという気持ちがかなり強かったのだろう。
「田代さんのイメージは、いつも自分が中心でないと気がすまないって感じに思っていたんだけど、違うかしら?」
もう二十年近くも経っているのだから時効だろう。
「そんな風に思っていたの? どうなんだろう」
と言葉を濁していたが、その言葉を踏まえたうえで高校時代の自分を思い出せば、まさしくその通りかも知れない。高校時代の心境が思い出されてきて、さらに最近のことに思えてくるから不思議だった。
雄大にとっての高校時代、それは暗いものであった。信念がなかったように思えたからだ。
しかし皐月に言われた、
――自分が中心でないと気がすまない性格――
というのは、今でも変わっていない。
暗いと思っていた高校時代、実はそれほど暗いわけではなかったのかも知れない。
大学に入って変えようとした性格、変えようとしたわけではなく、自分を発見することを目指していたといってもいいだろう。
――結局同じことか――
と自分で納得していた。
いつも前ばかりを向いている皐月、自分が中心でないと気がすまない雄大、性格に違いこそあれ、どこか共通したものがあるに違いない。久しぶりの再会で、お互いにそのことを感じながら、ひょっとして気付いている部分が大いにあると思っているのかも知れない。本当にこの出会いは偶然なのだろうか?
普通であれば、自分が中心でないと気がすまない性格というイメージは、自分勝手で、他の人のことを考えない人を意味することが多い。指摘されて気持ちのいいものではなく、顔が真っ赤になってしまいそうなくらいに恥ずかしいことだ。
だが皐月に言われて嫌な気はしない。言いたいことをすべて分かってくれているように思うからだ。元嫁の弥生もそうだった。
「あなたって分かりやすい性格をしているから、あまり誤解されないタイプかも知れないわね」
と言われたものだ。それが本当にいいことなのかどうかは分からないが、別れてしまった今となっては、弥生に確認することもできない。
分かりやすい性格は人から好かれるものなのだろうか?
雄大はきっと好かれていると思ってきた。それだけに急に相手の気持ちが変わってもそれを見抜く力には欠けていた。弥生の心変わりに対して油断があったに違いない。
雄大がよく夢に見るのは高校時代の夢である。
その夢には、同じシチュエーションとは限らないが、必ずもう一人の自分が現れる。遠くから自分を見ている第三者的な夢が多いが、それよりも自分が見られている主人公の時の方が印象深い。
夢を見ているという感覚がないからだ。もう一人の自分に見つめられ、初めてそこで夢であることに気付く。状況を判断する前に目が覚めてしまうので何とも言えないが、目が覚めてからも記憶に残らないので掻いた汗と、夢の中で自分を見たという思いだけがぼやけて残っている。
しかし、高校時代には、他の人からも見られていた記憶がある。それが皐月の視線だったことに再会してすぐに気がついたのは、高校時代の夢をよく見ていたからだろう。
高校時代の夢の中で自分を見つめる視線に、実際の高校時代に感じたイメージと若干の違いがある。そこに女性の視線独特のものがあったのだ。熱いだけではなく大人の女性を感じさせる妖艶さを漂わせていた。まるで香水の香りに満ちているような視線といえばいいだろうか。それにしても甘い雰囲気を醸し出していた。
甘い中に柑橘系の香りを感じるのは、今の皐月を見ているからだ。匂いを感じるからその時の視線が皐月の視線だったと思えてくる。
だが、夢の内容は決して楽しいものではなかった。夢の中でじっと見ている自分の視線、それはまさしく戒めの視線だった。人から戒められると必要以上に神経が高ぶってしまい、被害妄想に陥ってしまう自分がいることに気付いていた。
高校時代の雄大はまわりからの視線に敏感だった。数人から見られていた気がしていたが、その中に皐月がいた。皐月が気になっていたが、恥ずかしがり屋だったこともあって、その視線を無視してしまっていた。
人から見つめられて、どうしていいか分からないほど、高校時代の雄大はウブだった。世間知らずだったといってもいいだろう。それも一人でいる時間が好きだったことが災いしているのだろうが、本当に災いという言葉だけで片付けられるのだろうか。
被害妄想に包まれていたように思える高校時代、歴史などの社会科が好きで、熱心に勉強していた頃でもあった。心のどこかで優越感に浸っていたのは自分でも分かっている。ひょっとして他人に向けられた目も、優越感が滲み出ていたのかも知れない。
作品名:短編集93(過去作品) 作家名:森本晃次