短編集93(過去作品)
結婚してから賃貸マンションに住むようになったが、そこに知り合いを連れてくることも稀である。一度か二度あったくらいだ。
「新婚家庭にお邪魔するのも気が引けますので」
と言われるのも分かっていたし、自分ならあまり行きたがらないからだ。
次第に自分の世界が狭くなってくるのを感じていた。
――結婚するってこういうことだったのか――
という若干の疑問を抱きながらではあったが、二人の時間に影響するものではない。弥生もあまり友達がいる方ではなかったので、表に出ることもなく、あるとすれば二人で実家に立ち寄るくらいだった。
弥生の実家に雄大が赴くことは厭わないが、弥生が雄大の実家に赴くことへの危惧はいつも感じていた。しかし、それこそ取り越し苦労というもの、人見知りするタイプの弥生だったが、雄大の両親とはウマが合う。気さくで喋りすぎが気になるくらいの母親が、物静かな弥生の気持ちを引き立てているからかも知れない。
雄大の両親も弥生には寛大だった。その気持ちに忠実な態度で弥生が臨んでいるのが一番の理由だろうが、それだけではない。性格的に合うのだ。
時々雄大が仕事に行っている時に弥生が一人で、雄大の実家に母を訪ねていくことがあるらしい。弥生の実家で摂れた野菜や果物のおすそ分けに行っているのだが、一日ゆっくり過ごしているのを聞くと、ホッとした気分になれる。自分が仕事で留守の間、嫁姑が仲良くしてくれているという話を聞くのは一番嬉しい。
「一番の楽しみはあなたたちの子供よね」
といつも母は漏らしているらしいが、それを聞いて少しだけ顔が曇ってしまう弥生に気付いていないのだろう。
子供を作らないようにしているわけではないのだが、なかなか子供に恵まれなかった。結婚してから二、三年と経つうちに気になってか、弥生は婦人科に診てもらったらしいが、どこも悪いところはないらしい。とりあえず待っているしかなかった。
それから何があったのか、弥生との仲がぎくしゃくし始めた。それは何となく分かってはいたが、痒いところに手が届くように、何もかも分かってくれていると思っていた弥生だったので、あまり心配はしていなかった。
「あなたって分かりやすいわね。顔にすぐ出るから」
よくそう言っていたが、これは今に始まったことではない。付き合っていた頃からのことで、それが長続きの秘訣だと思っていた。交際中から喧嘩一つせず、ずっと三行半ですぐ後ろを歩いてくるような弥生を、ある意味心強く思ったものだ。
お互いの両親も仲がよく、これほど本人同士もまわりを取り囲む家族もうまくいくこと自体、順風満帆だったと言えるのではないだろうか。
しかし、好事魔多しとはよく言ったもので、暗雲立ち込めたとしても、意識がそちらに向いてこない。たいしたことではないと思ってしまう。弥生にしてもそうだった。
――ちょっとした気の迷いだろう。別に改まって問いただすこともない――
と思っていた。下手に騒ぐと問題が大きくなりかねず、大袈裟ではなかった気持ちを刺激してしまわないとも限らないからだ。しばらくは放っておいた。
元々人見知りするタイプの弥生が、雄大にだけは何でも話せた。だからこそ一番の理解者であり、添い遂げる仲になったのだ。何しろ自分のことが分かってくれていて、文句の一つも言わなかった人ではないか。同じ無口でも、何を考えているか分からない無口が一番難しいことを、その時に思い知らされた。
弥生は完全に自分の殻に閉じこもっていた。他の人に対してもさらに無口になり、何でも話できたはずの雄大に対しては、睨みつけるだけで話をできる状態ではない。雄大もその目を見ては、自分から話しかけることもできず、
――ほとぼりが冷めるまで、ソッとしておこう――
と思うにとどまった。
何となく嫌な予感がするのだが、漠然としているだけに却って気持ち悪い。しかしまさかそれほど大袈裟だとは思っていなかっただけに、ストレスとして溜まってはいくが、対応策が見つかるわけではなかった。
「早く手を打たないと大変なことになるぞ」
という話を人から聞いて、驚いて弥生との会話の場を作ろうとしたが無駄だった。
「あなたとは、もう会話をする余地はありません」
何がどうなったのか、サッパリ分からない。
別に浮気をしたわけでもないし、嫌われることで形になって現われたことは何もなかったからだ。
「一体どうしたっていうんだ」
弥生は答えない。もうすでに二人に仲は尋常ではなかった。
しばらくして離婚届を突きつけられ、
「性格の不一致なの。どうしようもないの」
と一方的な意見で、彼女は実家に帰ってしまった。あれだけうまく行っていた弥生の実家の家族とも、これを期に気まずくなってしまう。
説得に向うが、完全に雄大が悪者扱いである。言葉を選んでなるべく優しい口調で諭されるが、それだけに重みがある。
「雄大君。ここまでくれば原因は何であれ、もう修復は不可能だよ。男と違って女は、ギリギリのところまで我慢するけど、我慢できなくなると、頑なになるだけで、それを修復することはなかなか難しいものだよ」
ゆっくりと噛み締めるように話されると、説得力は完璧である。
――一歩も引く感じはないな――
と感じさせるだけで、その場にいる人で自分だけが一人浮いてしまっている。これでは話になるはずもない。
離婚が成立したのは、それから数ヵ月後のことだった。さすがに最後は放心状態で、感覚も麻痺していた。だが、離婚に応じないと、ズルズルいくのは分かっていたので、しょうがないことであった。
――まるで他人事だったな――
一番の当事者のはずだが、離婚が成立してある意味さばさばした気持ちになったのも否めない。ポッカリと気持ちの中に穴が開いてしまった。
「離婚なんて今の世の中日常茶飯事、珍しいことでも何でもないよ」
慰めなのか何なのか、自分の両親からはそう言われた。ただの慰めでしかないが、自分の殻に閉じ篭り始めたのはそれからだった。
離婚してからというもの、最初は街に出かけるのを躊躇っていた。楽しかった時のことを思い出してしまうからだった。しかし、癒えない傷はないというが、徐々に街に出ることも多くなってきた。
一人で街に出かけて、最初は面白くなかった。今でも面白いとは言いがたいが、まわりを歩くアベックを見ているのが辛かったのだ。
一人で街に出ると、待たされるのが嫌になっていた。食事もあまり待たせるところに行かなくなり、ハンバーガー屋、牛丼屋、回転寿司のような、あまり待たせないところに立ち寄っていた。
どうしてもハンバーガー屋が多くなる。いつ行っても多いのだが、それでもさすがに昼の前後一時間という時間帯にカウンターに並んでいる人の数は半端ではない。見るだけでウンザリしてしまう。
休みの日というのはあまりお腹が減らないので、午後を少し回っていても、我慢できるのである。気がつけば三時近くになっていたということも少なくなく、イートインのテーブル席もあまり混んでいなかったりする。
――そういえば、学生時代ファーストフードの店は毛嫌いしていたっけ――
今さらながらに思い出していた。
作品名:短編集93(過去作品) 作家名:森本晃次