短編集93(過去作品)
そこが斉藤のすごいところだ。人に相談ごとをすることのなかった斉藤であるが、人に相談するとするならば、自分の決意を固めた後かも知れない。だから斉藤が悩んでいる時期を知っているとすれば、人に相談する時は、自分の中である程度結論付けてから人に相談する人でなければ分からないはずである。もっとも、本当にそんな姿も意識していなければ気付くこともないだろう。
入社するのに難しいことはなかった。試験といっても形だけのペーパー試験に、面接も教壇に立っていた経験があるだけに無難にこなせた。職種は営業ということで少し不安もあったが、何とかなるだろうと楽観的に考えていた。
しかし、隆二の考えは甘かった。何と言っても忘れっぽいところがあるのが隆二の足を引っ張ることになる。
商談をして見積もりを出してきても、その内容を後になって忘れてしまっている。その時は覚えているのに、少し経っただけで、内容をすっかり忘れてしまっているのだ。
――今度はメモしておこう――
と考えてメモを取っても、メモをした時の心境を思い出せないのでは一緒だった。
――どうしてなんだろう――
教師をしている時はそれほど忘れっぽいことへの意識はなかった。聖職者としての自覚というよりも、学生時代から教師を目標に頑張ってきたことの方が隆二の中の教師というものへの意識である。
忘れっぽい性格であることに最初に気付いたのは、人の顔を一発で覚えられないと感じた時だった。
「そんなのは最初から分かるだろう?」
と言われるだろうが、高校生の頃までは人の顔を覚えることに違和感はなかった。いつの頃からか、覚えようとすると覚えられなくなってしまっていたのだ。
――自分に自信がないからだろうか――
意識が強すぎると覚えられないのかも知れない。高校生くらいまではあまり必要以上に意識過剰ではなかったはずだ。それほど人との出会いがあったわけではなかったからだ。
街で出会って声を掛けようとしても、
――もし別人だったらどうしよう――
という意識が働く。
「別人だっていいじゃないか、一言謝ればいいんだよ」
と誰でもが言うに違いない。
高校時代に好きだった女の子がいるのだが、その女性は近くの女子高に通っていた。夏通学だったのだが、田舎でありながら通っている高校の近くには学校が三つほど集中していた。バスで通っていたのだが、いつも通学時間になれば、満員に近かった。
隆二には女子高の制服は眩しかった。異性に興味を持つのが遅れ、そのせいで自分の気持ちを押し殺すようになった隆二だが、好きになった女の子に対しては、本当に自分の気持ちを押し殺せたのか怪しいものだ。
きっと無理だったに違いない。視線はずっと彼女を捕らえて離さない。相手がそのことに気付かぬはずもなく、隆二を意識しているのが分かった。
彼女は静かな女性で、あまり感情を表に出す方ではない。思ったことがすぐに顔に出てしまう隆二は、顔色一つ変えない彼女を見ていて苛立ちさえ覚えていた。本当は羨ましいと思っていたのかも知れない。だが、それよりも表に出る感情は、苛立ちだったようだ。
彼女のこともよく夢に出てきた。
バスに乗ってじっと見つめているのだが、顔がハッキリと分からない。だから夢だということが分かるのだろう。目が覚めるにしたがって忘れていく夢であるが、忘れてしまったのは夢の中で見た彼女の顔ではないかとも感じる。
夢から覚める時に顔を忘れていくのは、必然的なものなのかも知れない。夢と現実の狭間をハッキリと意識したことはないが、夢と現実の間にトンネルのようなものがあって、意識してはいけないものなのだろう。目覚めるまでに時間が掛かるもの当たり前のことである。
彼女を見ていて、田舎の女性だという感じはまったくなかった。素朴さがないわけではないが、清楚な雰囲気はむしろ垢抜けたイメージを与えられ、無表情さは都会の女性を思わせるに十分だった。
お嬢様だったのかも知れない。
表情を変えないのは、確固たる自分の信念のようなものを持っていて、それが自分に対する自信を生んでいる。
「彼女のどこに惹かれたんだ」
と聞かれれば、
「凛々しい雰囲気かな」
と答えることだろう。これが隆二にとっての初恋で、彼女の顔だけは今でも覚えている。
――他の人の顔をすぐに覚えられないのは、いつも人の顔を覚えようとした時に、彼女の顔が頭の奥に引っかかっているからだろう――
彼女の顔をいつも思い浮かべてしまうにもかかわらず、思い出すのは一瞬だけである。それだけに他の人の顔を覚えようとすると、頭の中が錯乱してしまうのだ。
時々彼女の夢を見るが、夢で顔を確認はできない。逆行になっているのかシルエットが掛かっていて見ることができないのだ。それでもストーリーは構わずに進んでいく。それはまるでどんな人にでも平等に時が刻まれていくようなものであった。
結局彼女には声を掛けられないまま卒業し、それから二度と会うことはなかった。その思いがトラウマになっていることだろう。
田舎に帰ってくる時に、
――彼女にまた会えるかも知れない――
とワクワクしたが、会えるとしても当時の彼女ではないはずだ。分かりきっていることなのに、ワクワクしている気持ちは消えていない。
――もしまったく違う雰囲気になっていればどうするんだ――
とも感じるが、その時はその時、却ってトラウマが解けるかも知れない。
年齢から言えば、結婚して子供がいてもおかしくない歳である。高校時代の彼女からは想像もつかない彼女の結婚生活、もし想像する旦那さんの顔は、鏡で見る自分の顔のように思えていた。
鏡で見る自分の顔ほど、意識が薄いものはないと思っていた。自分の顔を見るには鏡という媒体がなければ不可能だからだ。会社の同僚だったり、学生時代のクラスメイトのように毎日顔を合わせる人ほどインパクトが残るはずもない。
しかし、自分の顔を意識してしまうこともある。人の顔を覚えようとした時、相手の雰囲気によって、鏡に写った自分の顔が浮かんできて邪魔するのだ。
――またしても――
と感じたことが何度あっただろうか。自意識過剰という言葉が重く自分の中に覆いかぶさってしまっている。自分に自信がないから余計に意識してしまうと感じるのは、まわりの人が自分よりも優れているように見えることがあるからである。
隆二は自分の考え方が減点法であることに気付いたのは最近になってからだ。小学生の頃算数が好きだった少年時代の隆二は、自分で分かっていたかも知れない。
中学に入って算数から数学に変わると、公式を用いての回答に戸惑いを覚えた。
――自分の好きな算数は、答えが一つであっても、考え方がいくらでもあるから好きだったんだ――
と思っていた。答えを導くまでのプロセスに興味があり、発想の豊かさがそのまま答えに結びつくことが好きだったのだ。
答えから導き出されるプロセスもありではないだろうか?
減点法の考え方は、そのあたりから由来しているのかも知れない。
作品名:短編集93(過去作品) 作家名:森本晃次