短編集93(過去作品)
大学での成績はずば抜けてよかったわけでもなく、それほど悲観的でもない。それなりに勉強した成果がそれなりに出た。
――まあ、こんなものだろう――
と、納得の行くものだった。
教職課程も無難にこなし、赴任地も都会の私立高校。引っ越すこともなく、まわりから羨ましがられるくらいの順風だった。
順風満帆とまでは行かないが、限りなくそれに近かった。すでに田舎から出てきて四年、都会の空気にも十分染まり、田舎のことを忘れかけていた。
とは言っても、田舎のことは時々夢に見ていた。特に斉藤と話をしていた頃が一番懐かしく、夢に出てくる斉藤の笑顔が印象的だ。
だが、いつも同じ笑顔だった。
――もっと表情が豊かだったはずなのに、どうしていつも同じ顔しか夢に出てこないんだろう――
と思っていた。夢に出てくる笑顔が一番印象深く残っているのならそれも納得いくのだが、夢から覚めるにしたがって、田舎の記憶が一気に冷めてくるのを感じると、どうも深く残っている印象ではないように思えてくる。
――教師になりたいと言った時の表情とも違うな――
と感じていた。きっと、もっと大切な話をした時だったのかも知れないが、なぜか記憶にない。
しかしなかなか思ったように行かないのも予感していたことかも知れない。
順風だった頃というのは夢見もよかったし、何よりも夢で見たことが現実に起こっていたようにさえ思えた。
夢というのは潜在意識の見せるもの。自分が感じることのできないことを夢に見るということはありえない。夢に見たことを覚えているのでさえ珍しいことなのに、それが現実に起こっていることを自覚できるなど、よほど夢がリアルだったに違いない。
夢のインパクトの強さは予知夢という形で表される。悪いことの夢が続くことなどないはずだと思っていた頃のことである。
五月病を乗り越えたことが、隆二に希望を与えた。すべてがいい方に向っているように思えて、まわりの人たちがすべて自分の味方であったり、考え方に共感してくれるはずだと思っていた。実際に大学でできた友達というのは、結構共感できる考え方の持ち主でもあった。
教師を目指す者ばかりの大学ではないので、芸術家を目指している者や、エンジニアを目指している者もいる。
さすがに営業を目指している人はいなかった。商業科もあったのだが、なぜか隆二のまわりに集まってくるのはクリエイティブな考え方を持った人たちで、想像力や突飛な発想の持ち主が多かったのだ。
特に音楽関係に籍を置いている友達は、
「いつも頭の中でリズムを刻んでいるんだよ」
と笑っているくらいだった。普通に話ししていて、
――よく気が散らないな――
と思えるほどである。
物忘れを気にしている隆二にとっては羨ましい限りであるが、それも目の前のことを素直に感じる性格がもたらしたものだと思っている。
目の前のことばかりに気を取られていて先が見えないことの怖さが歳を重ねるごとに深くなっていったが、途中からあまり気にならなくなった。それだけ教師になるという目標が現実味を帯びてきたからだろう。
目の前のことを素直に感じることを、ずっと自分の長所だと思っていた。
――長所と短所は紙一重――
と言われる。長所の裏にこそ、短所がある。それを教えてくれたのが、斉藤だった。
斉藤は遠まわしにしか言わないが、
「灯台下暗しという言葉があるだろう? それって誰にでも言えることなんだけど、目の前に見えていることだけのたとえじゃないんだよ」
一瞬意味が分からなくて、斉藤の顔を覗き込んだ。
「探し物が見つからない。一生懸命に探せば探すほど見えてくるものが見えないという意味だろう。だけどそれだけじゃないんだよ。本当に見えなければいけないものは、見ているところのすぐそばにあるって意味もあるんだ。それが見えないということは恐ろしいってね」
「車のヘッドライトを思い出したんだけど、車のヘッドライトは、運転手が見えるというのと同じ意味で、相手に自分の存在を知らせるというもっと大切な役割があるんだよね。薄暮で車のライトがついてない時、歩いていて危ないと思ったことがあったよ」
「野球だってそうだよ。よくプロ野球をテレビで見ていて解説者が話しているだろう。バッターって得意なコースのそばにこそ、ウイークポイントがあるって、だからコントロールさえ間違えなければ打ち取れるんだけど、それができないから野球って面白いんだって言ってた。僕もそう思うんだ」
その後いろいろな例え話が出てきたが、結局長所と短所は紙一重だということが言いたかったようで、最後にはキチンとそこに話が戻ってくるからうまくできている。
「順風な時ほど短所って見えないものだよ。だけど不思議なもので、順風な時ほどいろいろなことに気がつく。特に僕なんて、順風な時ほど鏡を見るんだ。普段見えないものが見えてくるような気がするからね」
と言われて、隆二も鏡を見る回数が増えた。普段はさほど気にして見ていないが、時々無性に鏡の向こうが広く感じることがある。
――何がそんなに広いんだろう――
奥行きを感じるのだ。しばらくじっと見ていると目が慣れてくるのか、暗く感じられた。
――影を感じるんだ――
下と上とで明るさが違う。明らかに下が暗く上が明るい。
影が作る立体感、それが幅広い空間を作り上げている。
順風な時ほど不安を感じる。好事魔多しというではないか。それは自分を見つめる影の存在を知らず知らずのうちに感じているからに違いない。そのことに気付いてくると、見えなかったものが見えてきて、順風だけでは済まされなくなる。
それに気付いたのが大学を卒業する寸前だったのは、何かの予感があったからかも知れない。
赴任してからの最初が肝心だった。
甘く考えていたわけではないが、教育実習があまりにもうまく行き過ぎていたので、
――自分は聖職者に向いているんだ――
と過信していたところがあった。
しかし、現実は世の中の抱える問題が凝縮されているような学校の中。不登校、暴力、それでいて、授業中の無関心さ、どれを取っても一筋縄ではいかない問題である。
特にどこまでが自分の立ち入ることのできる範囲内なのかを見極めることの難しさがあった。過程の問題に口を出すわけには行かず、下手に立ち入ると、生徒のプライバシーに触れてしまう。かといって放っておくわけにもいかず、ジレンマに陥ってしまう。
それは他の教師も感じていることだった。
中には自分の信念を貫いている教師もいるのだろうが、信念を強く持って教師になった人ほどギャップの強さを感じ、すぐに辞めていくらしい。今残っている先生たちも、最初は自分の信念を持って入ってきたのだが、いつの間にか
――長いものには巻かれろ――
とばかりに、信念を捨てることで、教師を続けている人たちがほとんどのようだ。
「これが現実なんだよ」
一人の教師が溜息交じりに語ったが、その言葉がすべてを凝縮しているように思え、それ以上何も話をすることができなかった。
現実を思い知ったのは、この時が初めてだったと思ったが本当にそうだろうか?
作品名:短編集93(過去作品) 作家名:森本晃次