短編集93(過去作品)
独り言のように呟くが、考えてみれば当たり前のことである。
小さい頃は遠くに感じた池が近くに感じるようになっただけだった。二階の部屋から見下ろすのに、子供の背丈と大人の背丈を考えれば当然子供の方が高く感じるのは当たり前である。それだけ池も小さく感じられ、遠くに見えるのだ。
――大人になればそれが近く大きく感じるんだ――
と考えた時に思い出したのが、平行線について考えたことだった。
あれは日記を書き始めて一年くらいの頃だっただろうか?
思い出しながら日記を見てみる。昔の日記を開くのは楽しみなのだが、少しドキドキする。ずっと成長を続けてきたと思っている幸子にとって過去を振り返るということは、それだけ気持ちの逆行を生むと思っているからだ。おかしな感覚であることには間違いない。
――そういえば、あんなこともあったな――
案ずるよりも生むが易し、考えていたよりも日記を見るというのは新鮮な気持ちにさせてくれる。しかも時系列で見ると、自分の歩んできた人生の縮図を見ているわけで、あっという間に自分を顧みることのできる素晴らしいものだ。
そんなつもりで書いてきた日記ではなかったはずなのだが、今から思い起こせば後から見返すことを予想して書いていたような気がする。日記というものにはそれだけの魔力を感じることができる。
いつ頃から、どんな気持ちで書き始めたのか、すでに忘れかけていた。中学三年生にもなると、小学生の頃というのはかなり昔に感じる。それだけ成長が早く、精神的に追いついていない証拠なのかも知れない。
一日一日を過去へと遡っていく方が記憶を手繰るには分かりやすい。絵を描くようになった時の気持ちだけはハッキリと覚えているのに、最近は絵を描くことに少し興味が薄れている。
どうしてなのか自分でも分からない。別に絵を描くことが嫌になったわけではない。確かに以前のように毎日描いていて満足感を感じるようなことはなくなっていた。それが一番の理由であることは否めない。
――嫌いになるのに、理由なんていらない――
別に絵を描くのが嫌いになったわけではないが、心変わりも理由なんていらないだろう。
心境の変化がいつだったのか思い出したくて開いた日記、読み返していると時間を忘れる。
読み始めてすぐは、近い記憶なのでサラッと読めるだろうと思っていたが、意外と時間が掛かっていた。意識的にはすぐなのに、気がつけば時間が経っていたという記憶は今までにはあまりない。逆は多かった。
ずっとベッドの中にいたので、かなり時間が経ったように思っていても、実際はあっという間だったりする。たった五分のつもりが、一時間だったりすることなどしょっちゅうだった。
日記を遡るにつれて、時間の感覚が短くなる。時間が掛かっていたように感じていても、実際にはあまり経っていないように思えるのは、日記を見ていることに慣れてきたからではないだろうか。幸子は日記を物語のように読みたいと思っていたが、現在から過去に向けて読むのだから、物語として読むのは難しい。だから、それほど日記に入れ込んで読んでいるわけではない。むしろ日記を読むことで過去を思い返していると言った方が正解である。
絵のことが頻繁に書かれている日記のページまで遡ってきた。小学校を卒業する頃である。卒業すると、絵のことはあまり書かれていない。どちらかというと中学生以降は、夢の話が多かった。
いつも決まった夢を見るわけではないが、夢にはどこか共通点があるようだ。日記を読みながら夢を見ていた頃を思い出すと、絵を描き始めた時の気持ちが思い出される。
元々絵を描き始めた頃に見ていた夢は白馬に乗った王子様が多かった。
ある日、日記が抜けているのに気がついた。そのことを発見すると、さっきまで日記を見て過去を振り返っていた自分がまるでウソのように、日記から過去の心境を思い出すことができなくなった。
だが、その日から幸子の容態が急によくなり、学校にも毎日通えるようになったことだけは間違いのない事実として認識できている。日記が一日くらい抜けていても、今までならそれほど気にならなかったに違いないが、なぜかその時は、一日の空白が気になってしまっていた。日記を読み返すのは断念していつも仕舞っているところに直したが、空白の一日だけはしばらく頭に残っていることだろう。
それからすぐに幸子にも彼氏ができた。名前を誠というが、彼も元々は病弱な小学生時代を送っていたという。
学校の友達ではなく、久しぶりに表に出てデッサンしていた時に、彼が覗き込んできたのがきっかけだった。久しぶりにデッサンをしようと思ったのは、日記を読み返すことで、絵心を思い出したからだ。もし、日記を読み返すことがなければ、デッサンしてみようとも思わず、彼とも出会わなかっただろう。日記を読み返すことはそれなりに大きな意味があったのだ。
「なかなか上手な絵ですね。遠近感もしっかりしていて、立体感に溢れていますよ」
と後ろから彼が話しかけてきた。いきなり言われてビックリしたが、褒められて嫌な気分になる人もいない。言われて初めて他人の目になって見た幸子だったが、確かに彼の言うとおりである。
――どこかで見かけたことがあるかな――
と感じたがそれは一瞬だった。クラスメイトに似たような男の子がいるわけでもない。後は、テレビドラマに出てくる人くらいだろう。ドラマに出てくる人はあくまでもブラウン管を通しての人、自分とは関係のない人たちであることは認識しているつもりだ。
今まで幸子は自分がずっと一人だと思っていた。おばあちゃんはいるが、あくまでも親代わりのような存在、自分から他の人を感じるなど今までになかったことで、声を掛けられてビックリした反面、警戒心が本能として湧き上がってきたことを彼に見抜かれているように思えて、それも怖かった。
「それにしても奇遇ですね」
「何がですか?」
「僕は今までに女性はおろか、人に話しかけるなんてことはなかったんですよ。どうしても病弱な身体だというコンプレックスを持っていますからね。だから、自分でも信じられないんだけど、話しかけた相手もずっと病弱だった人だったんですよね……」
誠はしみじみと考えながら、一言一言に力を込めているようだ。だが、よく考えると今のセリフは「奇遇」という言葉の答えになっていないようにも思える。
「でも、それもある意味必然だったんじゃないですか? 何となく雰囲気で分かるってことあるじゃないですか。きっと私は他の人とどこか違うところがあったんでしょうね」
と、幸子の方で助け舟を出したように思うが、本当に助け舟なのだろうか。
「ええ、それは確かですね。この人ならっていう気分になったのは事実です。そして、その思いに間違いはなかった……」
「あら、まだ分かりませんわよ。断言してよろしいの?」
「きっといいと思いますよ。あなたの上品な雰囲気は、孤独の中から生まれたものですよね。孤独がどんなものか、僕には分かる気がするんです」
あまり友達とも話すことがない幸子だが、彼と一緒にいれば饒舌になれそうだ。
――ひょっとして、相手によって性格が変わる方なのかも知れない――
と感じる幸子だった。
作品名:短編集93(過去作品) 作家名:森本晃次