短編集93(過去作品)
他の人たちの生活がどんなものかを知らない幸子は、いわゆる世間知らずのお嬢様だろう。しかし、それは身体が丈夫でないことの弊害であって、丈夫だったらおてんばな女の子になっていたかも知れない。
――おばあちゃんを困らせていたりして――
そんな想像が頭を掠める。
木に登ったり、危ないと言われるところに行ってみたりと、想像は後を絶えない。まさしく「世間知らず」である。
木に登って下を見下ろしている視線は、部屋から池を覗いている高さに似ている。木に登るという発想がいきなり出てきたのも、きっと部屋から毎日池を見下ろしているからだろう。
おばあちゃんの姿が小さく見える。
――そんなに高い木に登ったような気がしないんだけど――
と思うが、そう感じると、すぐに部屋から見ているいつもの池の風景が頭に浮かぶ。
――小さく見えるけど、本当はものすごく大きいものかも知れない――
と……。
そのイメージが白馬に乗った王子様の出現とダブってしまう。だからこそ思い浮かぶのは果てしなく広がった湖畔に佇んでいる自分で、必ず後ろに白馬の王子様が立っているはずだと思うのだ。
――王子様――
その人に男性を感じない。むしろ、女性的なところのある人で、身体つきも華奢で、声も男性にしては幼い声を感じてしまう。
とても逞しい人、精悍な男性という雰囲気とは違い、凛々しい感じは受けるが、それはあくまで女性としてしか見ることのできないイメージを持っているからである。
顔をまともに見たことはない。鎧のようなものを着ている。顔は比較的露出しているが、それでも口元は隠れている。見下ろされて思わずかなしばりに遭ってしまうのはなぜだろう。
――どこかで見る顔だ――
視線を感じていると、背中に汗を掻いているようだ。視線を逸らそうとして首を動かしても、目だけはその人の目から離れることはない。
――白馬に乗った王子様――
その人の出現は、身体を動かすことのできない今の自分にとって、何かいいことが起こるためのきっかけだと思っていたが、どうも趣きが違うようだ。
王子様は幸子に何かを言おうとしている。
口が隠れていて何を言っているか分からないが、幸子には何かを言っているのが分かるのだ。
「いったいあなたは何が言いたいの?」
幸子が尋ねるが、声が聞こえてこない。同じ空間に存在しているのに、まるでまったく違うところから見つめられているようだ。
――夢なんだ――
この時になって初めて自分が夢を見ていることに気付く。
――今までにも同じように思ったことがあったわ――
白馬の王子様の出現の時には感じなかったが、夢を見ているんだと思った時に感じる。それは現実の世界と夢の世界がどうしても交わることのできない世界であることを証明しているように感じる。
「どこまで行っても交わることのない線、それを平行線と言います」
たまに行っていた学校で、記憶に深く残った授業で習ったこと、それが算数の時間に先生が話した「平行線」だった。
平行線は絵心に通じるものがある。
絵を描く上で難しいのは平行線である。立体を平面に描くと、平行線は必ずどこかで交わってしまうように描けてしまう。しかし実際には交わることのないものなのだ。これは大きな矛盾である。幸子が絵を描こうと重い、絵画というものに魅せられたのも、このような立体と平面といういわゆる、現実と虚空の世界の矛盾を考えるようになったからなのかも知れないと感じていた。
白馬の王子様の夢を見るようになってから、日記を書くのが億劫ではなくなった。最初は義務感のようなものがあったのだが、白馬の王子様を思い浮かべながら書いていると、内容はまちまちであっても、発想の膨らみを感じるのだ。
白馬の王子様が夢で見せる表情はあまり変わらない。しかし、その時々で感じる思いはさまざまなのだ。平行線が交わらないという思いからもいろいろな発想が浮かんできて、日記にそれを書き綴っている。
日記とはその日に起こったことを事実としてただ書くだけではない。自分が想像したことを文章に込めるのだって立派な日記と言えるだろう。日記というよりSF的な発想が入り混じった空想物語であった。
内容が何日にも渡って書かれていて、一日完結編はない。大スペクタクルを描こうとして、途中で分からなくなることもあったが、何とか気持ちを纏めて書いていた。
――こんなの誰にも見せられないわ――
もちろん、おばあちゃんにも見せられない。もっともおばあちゃんのように世代がかなり違えば分かるはずもないだろう。だが、もし分かってくれるとすればおばあちゃんしかいないのも事実で、結局気持ちを日記に込めることは、気持ちを押さえ込むことにしかならないことを知っている。
日記を書き始めてかなり経ってたが、そんなに長く書き続けているようにも思えない。もうそろそろ三年が経とうとしている。幸子の生活は相変わらずで、絵を描いたり日記を書いたり、そして相変わらず池を見ている。最近はかなり体調もよく学校にも毎日通えるようになったが、それでも他の生徒と同じような生活をすることまではほど遠かった。
中学三年生にもなれば、受験が頭を擡げてくる。小学校の頃の出席日数は少なかったが、中学校に入ればそれほど欠席することもない。勉強は元々好きだったので、成績はクラスでもトップクラスだ。
「お前くらいの成績になれば、どこの学校でも先生は内申書を書いてやるぞ」
とまで言ってくれるほどの成績だった。
幸子はできることなら将来は芸術関係に進みたかった。自分が芸術家を目指すのもいいし、それが叶わなくとも、芸術関係に携わっていければいいと思っていた。特に小学生の頃に感じた身体を動かせないことへのトラウマがいまだに残っているだけに、一旦考えたことを曲げることはなく、自分の気持ちに正直に生きたいと思うようになっていた。
――自分に正直に生きること――
幸子のように寝たきりで育った者にしか分からない気持ちかも知れない。
普段から考えるのは自分のこと。これは当然といえば当然である。
そのことへの相談はおばあちゃんにだけ打ち明けた。両親にそれとなく話してもらうつもりだった。
「大丈夫よ、あなたが考えているよりもずっとご両親はあなたのことを見ていますよ。あなたがやりたいと思っていることがよほど間違いでもなければ反対するはずありません」
胸を張って言ってのけるおばあちゃんが大きく見えた。
「もうあなたは立派な大人なんですからね」
と対等になっているはずもないのに、そう言われると何となくくすぐったく感じ、さらに、しっかりしないといけないという気持ちが起こってくる。
時々日記を読み返す。
――よくここまで書いたな――
我ながら感心し、壁に飾られた自分の作品をグルリと見渡す。そしてベッドの上から見た池を見下ろすが、
――あんなに大きかったな――
と感じた。
何となくおかしな気分なのは、本当なら大人になればなるほど小さく感じるもののはずなのに、大きく感じてくることが不思議だったからだ。しかし次の瞬間笑いがこみ上げてきて、口から思わず笑い声が出てしまいそうで恥ずかしかった。
「なあんだ。そういうことか」
作品名:短編集93(過去作品) 作家名:森本晃次