ドーナツ化犯罪
「それを言われると弱いんだけど、私もお世辞には弱いの。その気にさせてしまうと、何でもやっちゃうくらいなのよ。だから、小学生の頃なんか、クラス委員をやらされたり、雑用を押し付けられたり、そのおかげで結構損をしたりしたわ」
と綾音はいって、少し考え込んでいた。
何か嫌なことでも思い出したのだろうか?
もしそうだとすれば、
「悪いことをした」
と俊一は感じ、少しの間自分から会話を結ぶことはしなかった。
綾音の方からも会話をしてこようという雰囲気はなく、黙ってしまっていた。そんな雰囲気が十分くらい「続いただろうか? プチが奥の部屋から自分のおもちゃを持ってきて、俊一に手渡した。
「ん? どうしたんだい? プチ」
と声を掛けると、潤んだ優しい目を俊一に向けていた。何かをお願いしている時の表情に思えたが、何なのか分からなかった。
「それ、プチが好きなおもちゃなの。それで遊んでほしいっていってるんじゃないかしら?」
と綾音はいう。
なるほど、噛むにはちょうどいいくらいのゴムまりであった。ひょいと近くに放ると、走って取りに行く。少し地響きがしたが、他の部屋に響くことはないくらいであった。
拾ってまた俊一に渡してくれる。
「こんなに可愛いペットであれば、何時間でも二人きりで遊んでいても飽きないのかも知れないな」
と思うほどであったが、俊一は別のことも考えていた。
――このイヌ派本当に賢い。その賢いイヌがこうやってわざわざ遊んでほしいと言って訴えるのは、自分と綾音の間に気まずい雰囲気があるのを感じて、この俺にそれを打開してほしいという思いから、俺の方にやってきたんじゃないかな? そうじゃないと、飼い主の方に行くのが当たり前のはずだからな――
と思った。
「よしよし、いい子だ」
と言って、頭を撫でてやると嬉しそうにこちらを見るが、俊一が少し気を緩め、自分の顔から目を逸らしたと気付いた瞬間、プチは飼い主の綾音の方を見た。
その雰囲気はさりげないもので、他の誰にもこのイヌの気持ちは分からない気がするくらい今の俊一には、
「イヌの神様」
なるものが降りてきているような気がしていた。
すっかりプチは俊医師に懐いていた。それはきっと綾音が俊一のことを気にしていることに飼い犬としてちゃんと気付いたことで、
「いずれ、この人も私の飼い主になるのかも知れないわね」
という思いが宿ったからなのかも知れない。
イヌが口を聞けたら聞いてみたいものだと、イヌの飼い主は皆そう思うだろう。自分が思っているよりも冷徹なことを感じていたり、人間様というものに対して、相当な偏見を持っていたり、普通の飼い主では想像もしないようなことを考えてしまう自分を、俊一は少し怖いと思った。
それにしてもこんなに犬も可愛いのだから、飼い主の綾音も可愛いはずだと思った。俊一という男は、綾音の方が最初に気に入ったのではなく、イヌの方に夢中になった。もちろん、最初スーパーで話しかけた時は、綾音に対して女性としてときめいたからだったが、それがいつの間にか変わってきていることに、綾音は気付いていたかも知れない。
謎の行動
綾音は普段から彼氏がほしいという感情は持っていなかった。いないならいないで、それでいいと思っている方で、思春期の時も、そんなに彼氏がほしいという感覚はなく、まわりの女の子に対して、
――何をそんなに男の子に一喜一憂しているのかしら?
と思っていた。
ただ、一時期、
「彼氏がほしい」
という衝動に駆られたことがあった。
衝動に駆られるくらいだから、よほど感情が入り込んでいたのだろうが、衝動だっただけに、その熱はあっという間に覚めた。綾音はどちらかというと、
「熱しやすく冷めやすい」
という方であったが、ここまで衝動的なことを感情として持つということはなかったのだった。
ただ、理由は分かっている。
「あれは嫉妬だったんだ」
という思いである。
つまり、いつも自分は一人なのに、彼氏のいる女の子はそれを必死になって自慢している。しかも、相手が本当に恰好のいい男性であれば、それもいいのだが、どう見ても、自分なら近づきもしないと思うような男性を彼氏と言って、まわりに自慢しているのだ。
――そんなのが自慢になるんだったら、私だって――
という思いはいくらでもあった。
自分が本当は女の子らしくすればモテるという意識は結構あったので、自信はあったのだ。
しかし、そんなことで、
「どんぐりの背比べ」
をするのは、自分が情けなかった。
相手には負けないという自負があり、証明することもできるのに、その感情を自分で許さないという一種のジレンマと矛盾を心の中に抱いてしまったため、衝動的にはなったが、すぐに覚めてしまったのであろう。
そんな綾音はそれから、
「彼氏がほしい」
などと、一度も思うことはなかった。
もちろん、下の階に住むというこの俊一という男性もそうである。確かに顔立ちは丹精で、きっと女性にモテるだろう。自分と腕でも組んで歩いてくれたら、まわりに自慢できるほどの男性であることは分かっている。しかもその優しさには綾音は従順になれるのではないかと思うほどであった。
俊一はそんな綾音の気持ちを知っているのか、綾音が自分の家に招いてくれたのがどういうつもりだったのか、思いあぐねていた。
――俺のことを好きだと思ってくれたんだろうか?
確かに男性としてというよりも、お友達としてであれば、絶対に気に入ってくれていると思っている。
特に自分がプチに馴染んでいるところからもその様子は伺える。しかし、プチは誰にでも媚びをうるようで、相手が自分でなくてもよかったもではないかと思う気もしたが、プチの俊一を見る目には、明らかに綾音を見る目と同じものがあった。
――飼い主に対しては、他の人に対してとは違う意識を持っているということを、飼い犬は分からせようとするものだって聞いたことがあるわ――
と、綾音はその話を思い出していた。
俊一は、綾音が嫉妬するくらいにプチに慕われていた。もちろん、綾音がそんなことで嫉妬するはずはなかったがなかったが、俊一がひょっとして実家で犬を飼っているのではないかと思った。
「河村さんは、実家で犬を飼われているんですか?」
と聞いてみると、
「いいえ、実家では飼っていませんよ。そんなにイヌに懐かれているように見えますか?」
「ええ、とっても。だからイヌを飼われているのかなって思ったんですが」
「僕は実は昔からイヌによく吠えられたんですよ。結構怖がりだったので、イヌも分かっていたんでしょうね。怖がっている僕に容赦なく吠えまくるんですよ。結構子供には怖かったですよ」
と言っておどけて見せた。
そのわりにはプチにはよくなついている。きっとイヌも分かっているのではないか。つまりは、子供の頃よく吠えられたというのも、本当は犬が威嚇して吠えているわけではなく、構ってほしくて吠えていたのかも知れない。
「ひょっとすると、そのワンちゃんたち、皆尻尾を振っていたのかも知れないわね」
と綾音がいうと、俊一はニコッと笑って、