ドーナツ化犯罪
確かに自分で確かめる手間が省けたことで、結果的にはよかったのかも知れないが、あくまでもそれは結果論。人から伝わって、自分の意図しているわけではないところから引導を渡されたというのは、どうにも承服できる結末とは言えなかった。
それから、綾音はなるべく人とつるむことはよすようになった。ずっと一人でいるきっかけがその時からだったと言ってもいい。
ただ、綾音を情緒不安定にさせ、不眠症などを起こさせ、神経内科へと通わせた原因はそこにあったわけではない。
確かにそのことが引き金になったと言ってもいいのだろうが、それが本当の理由ではなかった。意識として残ってはいるのだが、その時の詳しい状況などは、綾音には思い出せなかった。一時的な記憶喪失だと言ってもいいだろう。
「人はショックなことがあると、その記憶を封印してしまおうとする意識が働く」
と聞いたことがあった。
本能的な記憶喪失なのか、それとも意識がもたらした記憶喪失なのか、綾音はハッキリと分からなかった。
そんな綾音がスーパーで仕事をしている時、ちょうど仕事から帰ってきた俊一が、惣菜を買いに店に入った。
「あれ? 上の階の確か……」
と彼は名前を思い出せないようだった。
「安藤です」
というと、
「ああ、そうそう、安藤さんですね。僕は下の階の河村です」
と挨拶してくれた。
その日、俊一は少し体調が悪く、早退したことで、綾音の就業時間に間に合ったわけだが、俊一はその時まで綾音がこのスーパーでアルバイトをしていることを知らなかった。
「アルバイトなんですよ。四時までなので」
と綾音がいうと、
「どおりで今まで見たことがなかったはずだ。僕はいつも会社の帰りにいつもここで夕飯の惣菜を買って帰るんですよ」
というと、
「そうだったんですね。知らなかったです。でも、今日はいつもより早いんですね?」
「ええ、ちょっと風邪気味だったので、早退しました」
「大丈夫ですか?」
「ええ、安藤さんの顔を見ると元気になりました」
「まあ、お上手」
見るからに初々しく、自分よりも歳が若いと思ったから言えたことだった。
だが、普段の綾音であれば、こんな言い方はしなかったかも知れない。ひょっとするとそれがアルバイトをしている自分のテリトリーの中でのことなので、その分、気持ちが大きくなっているからだったかも知れない。
二人はすっかり意気投合していた。これだけの会話をしていれば、主任さんあたりから注意を受けるのかも知れないが、普段からの綾音の功績は、本人が感じているよりも結構影響が大きいようで、それだけにこれくらいの会話は笑って許されるほどのものであった。
「初めてお話するはずなのに、前からずっとお話してきたような気がするくらいですよ」
と、俊一がいうと、綾音もまんざらでもない様子で、テレて見せていた。
「もし、お時間があれば、夕飯どこかで食べていきませんか?」
と、俊一は話しかけた。
今までの俊一であれば考えられないようなことであり、自分から女性に声を掛けることすら、したことがなかった。やはり意外な場所で知り合いに出会ったというシチュエーションは、普段あまり会話が得意ではない人にとっては、一つのきっかけになるのかも知れない。
しかし、返事は残念ながら、
「ごめんなさい。今日はちょっと」
というものであった。
綾音にしてみれば、普段から知っている相手というわけでもないし、いきなりだったのは大きかった。それに、家ではプチが待っているので、あまり遅くなるのはいけないかと思ったのだ。家にイヌがいることは彼も知っているので、それで断っているということが分かってくれればという思いもあっただろう。
しかし、確かに彼は綾音にイヌがいるのは知っていたが、それ以上に自分が嫌われたのかも知れないというマイナスイメージで考えてしまったようだ。
「そうなんだ、残念」
と本当に寂しそうな顔になったのは、嫌われてしまったかも知れないという思いが強かったからに違いない。
しかし実際には、綾音からすれば、結構好印象だった。
――この人は悪い人ではない――
と、根拠はないが、イメージとしてそう感じていた。今までにはそんな感情を持ったことのないほどである。
「今度、別の日でしたら、もっと早くいってくだされば、私も予定を立てておくことはできますわよ」
と言ったことで、少しショックを受けていた俊一は復活した。
「そうですか。それは嬉しい。こちらから今度提案させてくださいね」
というと、
「ええ、お待ちしています」
という明るい返事が返ってきた。
その約束はその後、結構早い段階で果たされることになったが、まだその時は二人とも気持ちがそこまで盛り上がっているわけではなかった。
綾音はそれから少しして、病気の悪化を知ることになるが、まだその頃はそこまで深刻には思っていなかった。
家では、いつものように待ってくれているプチを相手に遊んだり、プチをそばにしたがえて、編み物に興じたりと、一人と一匹の時間を謳歌していた。
そんな綾音が俊一の誘いを受けたのは、最初に話をしてから一週間後のことだった。
その日、俊一は仕事が休みの日で、夕飯を買いに、スーパーを訪れた。夕飯と言っても、三時ころだったのは、四時までの綾音のことを見越してのことだった。
「今日は休みだったので、お誘いを掛けにきました。今度の金曜日などいかがかと思ってですね」
と言われて、綾音の中では、金曜日だろうが、木曜日だろうが、水曜日だろうが、別に何か用事があるわけではないので、気楽に応じることができる。
要するに予定があるから断ったわけではなく、最初から予定として決めておけば、安心して出かけられるというものだ。プチも分かってくれることだろう。
「そういえば、ワンちゃんは元気ですか?」
そう言われて、ビックリしたが嬉しくもあった。
「ええ、元気ですよ。いつも甘えてばかりで困ったものです。でも、それが可愛いんですけどね」
と綾音は言った。
いきなりイヌの話をされてビックリした拍子に思い出したプチの顔は、正面から見たいつものボーっとした顔だった。
――いつもボーっとしているように見えるけど、本当は盲導犬だったり、警察犬だったりして、すごいイヌなのよね――
と感じていた。
そういえば昔、ペットフードのコマーシャルにこの子の仲間が使われていたような気がしたっけ。かなり前だったような気がする。大型犬の中でも人気がある証拠であろう。
「名前は何というんですか?」
と聞かれて、
「プチです」
というと、一瞬彼が戸惑ったように見えた。
きっと彼の瞼の裏にも同じように、プチの顔が浮かんできたのかも知れない。
「プチなんて面白いでしょう? 大型犬なのにね。でも、飼い始めた時は本当に小さくてかわいかったんですよ」
というと、
「そういえば、僕の友達も犬を飼っているんだけど、それも大型犬で、そう、秋田犬だったかな? 結構大きくなってるんだけど、名前がチビっていうんだ。それを思うと面白いって思うよね」
と彼は言った。
横で聞いている綾音もつられて笑ったが、それが二人で笑った最初だった。