ドーナツ化犯罪
「ええ、その通りなんです。ただ、そこに何らかの欺瞞があるような気がして。つまり凶器が表にあることで自殺ではないということを示すためのトリックが、密室にしなければならなかった理由の一つになったのかな? とも思うんです」
「ハッキリとは分からないが、今の門倉君の発想は、結構的を得ているような気がするんだ。いわゆる、当たらずとも遠からじということだね。つまりは、真相は案外に近いところにあるんじゃないかってね。でも、真相に近づけば近づくほど、見えなければいけないものが見えない可能性だって出てくる」
「どういうことですか?」
「徐々に近づいていけば、絞る焦点が決まってくるけど、視野はどんどん狭まってくるわけでしょう? でもいきなり近づいてしまうと、一気のその視野も狭まってしまう。つまり、見なければいけないはずの視野を見逃してしまって、二度と見ることができないのではないかという危惧だね」
「じゃあ、一気に近づくのは危険ですよね」
「そうなんだ。だから僕は捜査というものは、あらゆる場面を想定し、考えられることはすべて考えないと下手をすれば犯人にミスリードされるんじゃないかと思うことがある。特に警察の捜査というのは、方針が決まればそれに沿って行うという意味で、言い方は悪いが、融通の利かないものになることが往々にしてあるものだ。それが冤罪を生んだりしないとも限らない。僕はそれこそが犯罪なんじゃないかって思うくらいなんだ」
鎌倉氏の言い分は、門倉刑事に沈黙させた。
この発想はいつも門倉刑事が持っていて、いつも憂いている問題だった。これを尊敬する鎌倉探偵に指摘されてしまっては、門倉刑事も何と言っていいのか、言葉を失うのだった。
「この場合の密室はどうなるんでしょうね? やはり何かの作為があるということでしょうか?」
と門倉刑事は少しして口を開いた。
「死亡推定時刻を変えたというのは違う気がする。さっきも言ったように犯人が自分にアリバイがあるように持っていくためと考えたら、ここでの登場人物に犯人として特定されるべき人間が浮かんでこなければいけないのに、そんな人物が浮かんでくるわけではないだろう。つまり、密室にしなければいけなかった理由はそこではないんだ。確かにそのうちに犯人候補が出てくるかも知れないが、アリバイを証明するためであれば、犯人候補の絞り込みが早くなくてはいけない。人の記憶は曖昧なもので、アリバイに使える記憶や証人が、時間が経つにつれて発見できなくなってしまったり、記憶が曖昧になってしまえば、意味がないからね」
「そうなると、密室の謎がやはりこの事件の骨格になっていると見ることもできるわけですね」
「そういうことになるだろうな。そして私はもう一つ気になっていることがあるんだが、それは部屋で飼っているというイヌが気になるんだ」
「どういうことですか?」
「ラブラドールというイヌは賢いイヌだからね。ひょっとすると、その犬がこの一連の犯罪の中に占める割合は結構高いんじゃないかと思うんだ。何しろ二人の間での数少ない共通点だからね。先ほどの医者にしても、そうだけど、二人に共通で関係のある人、いやイヌも含めて、実に表に現れているのは少ないからね。それだけ二人は自分たちの間でも交友関係が少なかったということを示しているんでしょうね」
「確かに、私も気になっています。一つ気になるのは、真っ暗な部屋から飛び出してきた時後ろを振り向かなかったということなんです。ひょっとして、それは本当にプチだったのかなっていう気がするくらいです」
「プチというのは、その犬の名前ですね。大きなイヌなのに可愛らしい名前を付けたものだね」
「これは僕も実家で大型犬を飼っていたので分かるんですが、最初に買ってきた時というのは、子供だったりするじゃないですか。大型犬でも子供だったらまだ小さい、だからその容姿を見て、チビとつけたりしたものですよ」
「大きくなっても、名前を変えるわけにはいかないしね。そういう意味では、イヌも自分をチビだと思っていますしね。もちろん、チビというのがどういう意味なのか分かるはずもないですけどね」
実に滑稽な話である。
「僕はどうしてそれがプチじゃなかったのかと思ったかというと、その時、最初はそれがイヌだとも気付かなかった二人でも、後ろ姿を見た時に、きっと管理人か隣室の奥さんのどちらかが、イヌに声を掛けたはずなんです。イヌは一瞬止まったという話でしたからね。本人たちはその時何と言って声を掛けたのか覚えていないといいますが、イヌは立ち止まったということから、自分の名前を呼ばれたからだと思うんですよ。『おい、イヌ』なんて呼び方は普通はしませんからね。『プチじゃあないか』って声を掛けたと思うんです。だから一瞬立ち止まったけど、でも自分の名前ではないと思ったその犬は、声を掛けられたから止まったけど、それが自分の名前ではなかったから、その場からいなくなったという発想です」
「なるほど、私もそこまでは考えなかった。いや、考える必要がないと思ったからなのかも知れないな」
「どういう意味ですか?」
「私は、その犬はやはりプチに違いはなかったと思うんだ。もちろん、賢いイヌであるということに違いはないよね。で、飛び出してきたことも、後ろを振り向かずに表に出たことも、計画された居ることのように思えるんだ。だから、その犬はプチでなければ意味がないような気がする。他の犬をわざわざ借りてきたりすることはないはずだよね?」
「そうですね。確かに河村氏がラブラドールを飼い求めたり、知り合いから預かった。あるいは拾ってきたという話はなかったですからね」
「まあ、最後の拾ってくるというのは無理があるだろうね。あれだけ大きいな犬を拾ってくるのは難しいだろうし、まず彷徨っているということはない。すぐに保健所に捕獲されるレベルのイヌだからね。いくら大人しいとはいえ、あれだけ大きいと、放っておくわけにはいかないからね」
「そうですね。そして後の話もないことが分かりました。人から借りるということも購入履歴もありませんでした。やはり上で死んだ自分の彼女が飼っていた愛犬だと思うのが一番妥当でしょう。自分の好きだった人の形見のようなものだと考えるのが自然な気がします」
「河村君が綾音さんをどれだけ愛していたのかということは、神経内科の先生に聞くとよく話してくれました。いつも治療にはついてきてくれていたようだし、二人の睦まじいのをよく見ていたということです」
「その医者が完全に信用できるのであれば、実に微笑ましいお話なんですが、本当に信用できると言えるのでしょうか?」
「鎌倉さんは、この医者が怪しいと?」
「そこまではいっていないんだが、この事件での人間臭い部分には、この医者が絡んでいるように思えてならないんだ。彼は医者としての立場とは別に、綾音さんのことを思っていたような気はしてこないかね?」
「それはあると思います。ただ、確証があるわけではなく、あくまでも僕の感想だとしか言いようはないですからね」
と門倉刑事は言った。
予行演習
門倉刑事が鎌倉探偵の事務所を出る頃には、すでに日は落ちていた。