ドーナツ化犯罪
彼は今年新卒で大学を卒業し、入った会社の転勤で、この街に引っ越してきた。会社の社宅もあったが、せっかくの一人暮らし、給料の範囲内でギリギリ生活できる場所を見つけようと探したのが、このマンションだったのだ。
このマンションは二LDKと、一人暮らしには少しもったいないくらいだが、立地条件として駅から少し遠いことと、築十年以上が経っていることで、駅近くの新築に近いマンションなら一DKでも借りることができないほどだったので、広い方を選択したというわけだ。
一応全国展開している会社でもあるので、それなりの給料も貰えるということで、このマンションを選んだが、さすがに最初はご近所づきあいが合わないと思っていた。
昔から住んでいる人たちの集団が存在し、新参者にはどこか冷たい。最初の人当りだけはいいのだが、下手にそれを信じてしまって、人懐っこさを出してしまうと、相手の思うつぼに嵌ってしまいそうだった。
あくまでも自分は新参者だということを自覚してひり下っておかないと、後で痛い目を見る気がしていた。
「本当におばさんたちの集団意識は怖いものだ」
と感じていた。
このことは、大学時代から分かっていたことなのでよかったと思っている。その代わり、大学に入学してからすぐの頃は、まわりに溶け込めずに失敗ばかりしていた。図に乗ってしまうところがあるのも、彼にとってはマイナスであった。
「集合住宅なんて、どこも一緒だ」
ということに気付かなかった大学時代、今から思い返すと後悔ばかりである。
それでも、もう同じつては踏まないと感じ、今度は逆に相手を自分の方が利用してやるんだというくらいの気持ちを持つようにしていた。
だから、もし相手が欺こうとしてくれば、こちらはそれに乗ったつもりになって、相手を油断させるくらいのことはできるだろうと思っていた。相手を知ろうとしないから難しいだけで、
「おばさんの集まりなど、しょせん世間知らずな集団だ」
というくらいにしか思っていなかった。
その男性の名前は、河村俊一という。彼と綾音は階も違いので、面識がないようだったが、廊下で出会えば挨拶くらいのことはあったかも知れない。
そもそも、彼はサラリーマンで、毎日同じ時間に家を出て、帰りも残業などがあれば、帰ってくる時間はいつも午後十時は過ぎていた。
綾音の方のスーパーのバイトは、朝早い時は、九時くらいまでに出勤すればいいので、彼と会うこともない。彼は駅まで遠い上に、さらに電車で一時間近くの通勤時間なので、七時には部屋を出ていく。その時間はまだ綾音は布団の中にいるくらいだった。
スーパーのバイトと言っても、結構いろいろなことがある。レジはもちろんのことだが、商品の補充から、発注までこなさなければいけない。郊外型の大型スーパーほどではないが、コンビニほど小さくもない。中堅クラスの事務とスーパーでも、彼女の勤めている店は同じ系列店の中でも大きめの店だった。
駅前からそれほど距離もないことから、主婦の買い物はもちろん、独身サラリーマンが夕食として惣菜を買って帰るのにはちょうどよかった。店は午後十時まで開いているが、基本的に綾音は早番勤務なので、九時から四時までの、途中一時間休憩が取れる六時間体制だった。
夕方の本当に忙しくなる時間に帰るのだから楽だと思う人もいるかも知れないが、午前中は午前中、昼からは昼から出やることは結構あった。特に午前中は、納入容赦が結構納品に来るので、その検品に大慌てである。
このスーパーは地元では昔から馴染みの店であるが、全国チェーンのように大きな店ではない。大きなチェーン店になると、どこかに大きな流通センターを作り、そこに納入業者が店ごとに商品を運んでくるので、センターからは一台のトラックで一日に数度の納品で済むのだが、このスーパーには流通センターというものがない。そのため、業者は個別に納入してくるので、納品時間が重なると、道にトラックが並んでしまうという事態を引き起こしていた
交通渋滞を引き起こすということで、さすがにこの店も最近は流通センターの考え方に傾いているようだが、どこまで採算はとれるかが難しいところなので、二進も三進もいかない状態のようであった。
午後はというと、今度は入った商品を棚に入れ、それでも品切れているものを調べて、業者への発注業務がある。
こちらは時間が決まっていて、午後二時までに発注しなければ、翌々日の納品になってしまう。それではいけないということで午前中の納品が行われいる時にも他のバイトの人が棚入れを担当したりしている。
発注は物流と違って、本部に各店からのデータがすべて集まるようだ。そしてコンピュータ処理された各店おデータが、納入業者ごとに出来上がり、それを回線を使って、業者がデータを取りに来るという、
業者側で伝票を発行し、商品と一緒に持ってきて検品する。それが発注から納品までの大まかな流れだった。
最近では伝票もいらないものもあり、本当に昔ながらの手書き伝票を使っている日配業者などとの差が結構激しいことが伺える。
発注も昔のように紙に書いて、ファックスで送るなどというものではない。手に持ってちょうどいいくらいの大きさのハンディターミナルで、絵札のところのバーコードをピッとやるだけで、商品が読み取れる。後は数量を打ち込むだけだ。
そして発注が終われば、ハンディをデータ送信用の充電器のようなものの上に置いて、送信ボタンを押すだけだ。
もちろん、それはパソコンに連動していて、パソコンの発注送信画面というものがあるらしく、そこにページを開いておけば、データが送信され、何件送信されたかなどの表示が最後に出てくる仕掛けである。
本当はこれでも、まだ古臭いシステムなのだそうだ。もっと便利なシステムもたくさんあるのだが、いかんせん経費がかさむということで、今のようにしているだけだ。考えてみれば、物流センターも作れないほどの地場企業なので、それも難しいだろう。
しかし、物流センターを作ったり、システムをもっと簡素化するということは、ある意味人件費削減に役立つものであるのは確かだ。それでもなかなか踏み切れないのは、
「収支が逆転するのはいつになるか?」
という問題である。
システムを新しくしたり、新たに設備投資をすれば、最初は赤字の垂れ流しが当たり前のおとだ。だが、いずれは黒字に転じるからこそどこもやっているのだし、その収支の分岐点に至るまでに会社が潰れてしまっては本末転倒というもので、どうすればいいのか、会社だけではなく、経営コンサルタントの人とも協議をしているという話だが、果たしてどうなるのか、綾音に分かるはずもなかった。
綾音としては、毎日九時前に仕事に来て、四時まで何事もなく仕事が終わればそれでいいのだし、毎月決まった日に、決まったお給料がもらえれば、それでよかった。決して暮らしは楽ではないが。ここのバイトをしている分には、何とかなっている。綾音には仕送りをしてくれる親がいる。本当は、
「家に帰ってくればいいのに」
と言われていたが、綾音の家では兄夫婦が家にいるので、自分がいづらくなってしまったようだ。
「別に気を遣うことなどないよ」