ドーナツ化犯罪
「でも、彼の証言は、最後の一線は超えていなかったということでしたy」
「それはそうでしょうね」
先生はそこまでいうと、黙り込んでしまった。
「先生は、彼女は自殺だと思いますか? それとも事故?」
「医者として考えれば、事故なんだろうと思います。でも、私の私見でいえば、それはどっちでも関係ないんですよ。事故であれ自殺であれ、死んでしまったのだから、彼女の確固たる意志がそこには働いていると思います。つまり『死』という意識ですね。人間は死ぬ直前には死を意識するものなのですよ」
「よく分かりませんが」
「これは本当に私見なんですが、もし事故として口に入れた睡眠薬の量が多かったのだとすれば、すぐにでも吐き出そうとするのではないかと思うんです。普通に死にたくないと思っている人ならですね。殺されそうになっている時に、抵抗しない人なんていないでしょう? それと同じことです」
「なるほど、確かに吐き出そうとしたとか、そういう行動はまったくなさそうでしたからね。じゃあ、彼女が最初から死を意識していたということなんでしょうか?」
「なんとも言えないですが、少なくともクスリを口に入れた時にはすでに死を覚悟していたと思います」
「分かりました。それが先生の見解として私どもも考えておきます。あくまでも私見としてですね」
「そうしていただけるとありがたいです」
それから三日後のことだった。もう一つの事件が彼女のもっとも関係の深い人の身に起こったのは……。
密室
「管理人さん、やっぱり変ですよ」
というのは、二〇三号室に住んでいる奥さんからの進言であった。
前の日、いや、深夜の時間帯で、正確にはもう今日になっていただろうか。時計を見れば二時を過ぎているくらいの時間だっただろうか。
隣の部屋から妙な音がして、目が覚めた。それはまるで壁を叩くような音で、深夜の意地すぎであれば、完全な近所迷惑というものだ。
あまりにもひどいと管理人を叩き起こそうかとまで思ったが、音は何度かしただけで、その後はピッタリとしなくなった。旦那を起こそうとも思っていたが、どうやらそこまでの必要はないようだった。
「気のせいだったのかしら?」
と思ったが、どうも気になってしまった。
深夜に起こされたせいもあってか、その日はそれからなかなか寝付かれず、気が付けば朝近くになっていた。
旦那は優しい人だったので、夜中に何があったのかは知らなかったが、爆睡している女房を叩き起こして朝食の準備をさせるようなことはしなかった。
「下手に叩き起こしでもすれば、不機嫌な状態からの喧嘩になり、収拾がつかなくなるだろう」
ということも分かっていたので、冷静に考えて、その日は駅前の喫茶店にでも寄って、久しぶりにモーニングサービスとでもしゃれ込めばいいと思うのだった。
奥さんは旦那がそんなことを思っているなど知る由もなく、爆睡していた。だが、爆睡しすぎると目を覚ました時、快適な眠りからの覚め方をするわけではない。どちらかというと、あまり気持ちのいい覚め方をするものではなかった。汗をぐっしょり?いていたり、頭痛がしたりして、そのために一日体調が悪いこともあるくらいだった。
どうしてこんなに熟睡し、しかも目覚めが遅かったのか、すぐには分からなかった。
「そうだ、隣の部屋」
そう思うと、今度はハッキリと目が覚めて、冷静に考えてみた。
このマンションは奇数と偶数で部屋の間取りは左右対称になっている。つまり、この部屋の寝室の隣の部屋も寝室のはずである。ただ、その部屋はあくまでもその人が使いやすいように使っているので、隣の住人が、本当にその部屋を寝室として使っているかは分からなかった。
それでも夜中に失礼と分かっていてあんな音がしたのだからおかしい。隣の人は確か若いサラリーマンだったはずだ。それも結構しっかりしているという印象があったので、夜中に騒いだり必要以上の音を立てるということはないはずだ。そう思うと、昨日が何か異常だったのではないかと思うのだった。
それで、管理人室に入り、
「二〇五号室が何か変なんです」
と言われ、管理人はビックリした。
二〇三号室の奥さんはしらなかったが、二〇五号室の男性は、先日、自殺か事故で亡くなった三〇五号室の住人の彼氏であるのは分かっていた。第一発見者として事情聴取も受けていて、その彼の部屋が異常だと言われれば、管理人としては、ビクッとしても当然と言えるのではないだろうか。
「どんな音だったんですか?」
「ゴトゴトッて感じの音でした。それと一緒に、壁を叩くような音もしました。何かを知らせているかのようにも聞こえて、それで一回叩きなおしたんです。すると、音はそれからしなくなりました」
明らかに相手を意識しての行為であることは管理人にも分かった。
「それは尋常ではないかも知れないですね。ちょっと行ってみましょう」
と言って管理人は合鍵を持って二〇五号室を訪れた。
「河村さん、河村さん」
表から扉を叩いても音はしない。
しょうがないので、管理人は合鍵を鍵穴に通すと、それを回した。そして扉を開けてみた。
するとどうだろう。サッと風が吹いたかと思うと、足元に何か大きなものがふっと飛び出してきて、二人は恐怖で腰が抜けそうになった。それでも管理人は男であるし、管理人としての立場から勇気を振り絞って、風の正体を確かめるべく、後ろを振り返った。
そこには一瞬止まっていたかに見えたものがまた駆けていくのが見えた。それは薄い茶色の大きめのイヌであり、それが三〇五号室で飼われていたラブラドールであることが分かった。
「プチじゃないか?」
と管理人は犬の名前を呼んだが、その犬は振り向くこともなく、こちらに尻尾を見せながら、今度は褪せることもなく、ゆっくりとしたスピードで走っていった。まったく後ろを振り向くことなくであったが、そのことは管理人に、
「何かおかしい」
と思わせるだけのものではあったが、その時はビックリしたことで、忘れてしまっていた。
プチは、
「このままでは警察に連れていかれて、殺処分になるかも知れない」
と俊一が心配し、
「僕が引き取ります」
と言って、今は二〇五号室にいるはずなので、別に飛び出してくること自体は不思議でも何でもないことだった。
二人はその場に取り残され、何が起こったのか分からない様子だったが、本来の目的はこれではない。イヌが飛び出してきたことで頭が真っ白になったが、まだ自分たちが何も確認していないことを思い出した。
部屋の中に入ると、いきなりプーンと嫌な臭いがした。鉄分を含んだような臭いで、まるで病院にでもいるのではないかと思うような感じだった。二〇五号室はすべてが戸締りされていて歓喜といえば、かすかにクーラーが利いているだけなので、その臭いは充満して当然だった。
「何なの、この臭い」
と、奥さんもビクビクしている。
ただ、管理人は何となく臭いの正体が分かっていたような気がしたが、それを口にするのが恐ろしく、気持ち悪いばかりであったので、何も言えなかった。