ドーナツ化犯罪
その答えが嬉しくて、俊一は綾音に敢えて聞いたのだ。綾音が「お父さん」というのをどういうつもりで言ったのか分からなかったが、俊一には綾音が即答してくれたのが嬉しかったのだ。
二人が甘い言葉を囁き合っている時、プチはまるで関心がないかのようにあくびなどをしている。
「本当にお前は呑気でいいな」
と俊一はいうが、そんなプチを見ているのが最高の癒しだと思っている二人にとって、その言葉は戯言でしかなかった。
戯言もいう相手と戯言になる相手がいて成立する。その二人、いや一人と一匹が自分にとっての生きがいであり、ずっと大切にしていきたいと思っている相手であることを、俊一は心底喜んでいた。
そんな俊一の部屋の前を一人の男の子が通りかかった時のことである。その男の子が急に泣き出した。男の子が泣くのを聞いて、ビックリして他の部屋から奥さん連中が顔を出したが、泣き止まない男の子にビックリしていた。
「坊や何があったの?」
と一人の奥さんが聞いた。
まだ男の子は頭が混乱しているようで、答えることができない。その男の子の親と思しき人がやってきて、
「うちの息子がどうかしたんですか?」
と言ってやってきたのを見て、男の子はやっと泣くのをやめた。
「どうしたの?」
と泣き止んで自分の腰に飛びついてきた男の子を見下ろし、頭を撫でながら言った。
男の子はまだ二年生か三年生と言ったところだろうか、背もそんなに高くはない。お母さんは他の奥さんが数人いることで、ただ事ではないような気がした。
男の子はゆっくりと話し始めた。
「ここの前をさっき通りかかったんだけど」
と言って、俊一の部屋の扉を指差した。
小さな指が捉えたその部屋の扉は閉まっているようだった。男の子は続ける。
「中から何か大きなものが飛び出してきたんだ。最初は何か分からなかったんだけど、僕がひっくり返るのを見て、走って逃げ去ったんだけど、大きなイヌだったんだ」
という証言である。
「大きなイヌ?」
と聞いてピンと来たのは、皆おそらくプチのことだろう。
しかし、上の階であれば、分からなくもないが、二階でプチが飛び出してくることもない。この部屋は一人の若いサラリーマンが一人で住んでいるだけの部屋だと皆が思っているので、その話を聞いて、鵜呑みにするわけにもいかなかった。
かといって、その子をウソつき呼ばわりするわけにもいかない。実際に大声で泣いているのは間違いのないことだからだ。となると、見間違えたのではないかと思うのが人情ではないだろうか。
「本当にイヌだったの?」
となるべく優しく聞いたが、
「うん、大きなイヌで、薄い茶色いイヌだった」
と言われると、思い浮かぶぬはやはりラブラドールくらいしかいないだろう。
「とにかく、この扉から飛び出してきたということであれば、部屋の住人である河村さんに聞いてみないわけにはいかないわね」
と言って、呼び鈴を鳴らした。
すると中から出てきたのは、さっきまで寝ていたような顔をした俊一だった。
「どうしたんですか? 皆さん」
と聞くと、
「いえね、うちの子がここから大きなイヌが飛び出してきたっていうんだけど、あなたご存じ?」
と聞かれて、
「イヌならここにいるけど」
と言って扉を少し広く開けると、そこには、確かにラブラドールがいた。
「それは、あなたのイヌなの?」
と聞かれて、
「いいえ、上の階の安藤さんのイヌなんです。実は、安藤さん、ちょっと実家に帰ってくる用事ができたんだけど、預かってくれる人がいないということで、僕が預かってるんですよ。僕も犬が好きで、実家でも犬を飼っていたので、よく分かるし、それにラブラドールはおとなしいので、預かるくらいだったらできますからね」
というと、奥さん連中は怪訝な顔をしながら、それでも興味津々という目をしていた。
「お二人はそういうご関係なんですか?」
と一人が、明らかに悪意に満ちた言い方をした。
「どういうも、こういうも、イヌを預かってあげることのできる愛犬家としての仲間のようなものです」
と平気な顔をして俊一は答えた。
それにしても、さっき飛び出していったというイヌが中にいるというのもおかしなことで、飛び出したと思っていたけど、実はすぐに部屋に戻ったのかも知れない。少なくとも子供がウソをついたというわけではないようなので、
「うちの子が驚いて泣き出したんですよ。今度からはいくら預かったイヌとはいえ、ちゃんとしてくれないと許しませんよ」
とばかりに恫喝してくる奥さんに、
「申し訳ありません」
と殊勝に誤りその場を何とかやり過ごしたのだった。
実際に事件が起こったのはそれから数日ほどのこと。あの時のことを奥さん連中も皆忘れてしまっていたことだろう。
自殺OR事故
梅雨も明けて、いよいよ夏本番到来という、七月後半のことであった。俊一と綾音の住むマンションで自殺事件が起こった。自殺を試みて、見事に達成したその人とは、綾音その人であった。
綾音がしばらく、表に出ていなかったことを知る人は少なかっただろう。もちろん、彼氏と思しき密接な関係のあった俊一には分かっていたことだろう。だが、彼に綾音が自殺をするだけの動機を持っていたのかまでは何とも言えないかも知れない。綾音の最近というと、
「微熱が続くので」
ということで、数日、スーパーのバイトも休んでいた。
今年は梅雨明け前に集中豪雨があり、雨に濡れることもあっただろうから、そのために風邪をこじらせたのだと言えば、誰も疑わないだろう。
実際に綾音はスーパーからの帰りにゲリラ豪雨に遭ってしまい、傘を差してもさほど影響もないほどの雨に、びしょ濡れになりながらの帰宅が何度かあった。彼女の帰宅に合わせて豪雨が降ったわけではないのだろうが、そういう意味では不運だったと言えるに違いない。
「ゲリラ雷雨って、本当に嫌。ただでさえ湿気には弱いのに」
と綾音は言っていたが、確かに梅雨の時期のジメジメした蒸し暑さに、肌は結構あれていたようで、俊一も掛ける声がなかったくらいだ。
梅雨が明けると、今度はまったく雨が降る様子もなく、ただ蒸し暑さが続いた。直射日光がアスファルトを照り返して、普通に歩いているだけでも干からびてしまいそうな錯覚に陥るほどだった。
「熱中症には気を付けて」
と言われるが、何をどう気を付けていいというのだろう。
せめて、水分をしっかり摂るとか、なるべく日陰にいるとか、そんな程度しか考えられないが、普通に歩いているのに、水分を摂りすぎないようにしないと却ってバテることも分かっている。
「暑さに慣れるまでは、十分に気を付けて」
というニュースキャスターは言っていたが、この言葉には一点の納得がいく。
暑さに慣れていないから、今はまだきついのであって、慣れてくると少しは違うのではないか。しかし逆に慣れるまでに身体がバテてこないと言い切れないのではないか。そう思うと、暑さ対策のために、雑貨を取り扱う用品店に行っていることにした。
部屋の中を冷やすもの。歩いている時に気を付けるもの。さすがに季節商品として、一つのコーナーができあがっていた。