ドーナツ化犯罪
「ええ、何かをされたりしたわけではないんだけど、あの人の目に何か厭らしさが感じられて、少し怖い気がしているの」
というと、
「僕にはそんな風には感じないけど、気のせいなんじゃないかな?」
最初は気付かれたくないと思っていたが、気付かれてしまって、さらにこのような勘違いではないかと言われてしまうと、少し拍子抜けしてしまった。
――一番分かってほしい人が分かってくれようとしていないのではないか?
と感じたからだ。
確かに、俊一のことは好きである。あれからキス以上のことはなかったし、部屋に来てもあんな雰囲気になることはなかったが、日に日に彼のことが気になっていくのは間違いのないことだった。
それだけに、今自分が悩みに思っていることを分かってくれないというのは、どうもストレスをためる原因になるのではないかと思えてきた。
それと同時に、
――この人は、あまり相手の感情に深入りしないようにしているのではないか?
と感じるようになり、それは好きだと思っている相手であっても、心を許すことはなく、下手をすると、
――自分中心の考えでしか動いていないのかも知れない――
と思うようになっていた。
「ねえ、俊一さんには何か趣味のようなものはないの?」
と綾音が聞いたのは、
――そういえば、いうほど、お互いに自分のことをあまり話したことがないような気がする――
と感じたからだった。
「趣味というと、そうだな、小学生の頃は絵を描くのが好きだったかな?」
という、ちょっと意外な答えが返ってきた。
「絵が上手なんですね。私は絵を描いたことがないからよく分からないけど、尊敬するわ」
「上手というほどではないけど、小学生の頃は妄想好きだったので、絵を描きながら、大きくなったら自分のアトリエを持って、芸術家になるんだなんて思い込んでいたりして、自分でも笑っちゃうよ」
というのを聞いて、
「そうかしら? 妄想というのは結構嫌いじゃないわよ。それだけ目標が大きいということでしょう? 頑張れるはずよね」
というと、
「そうなんだけどね、でもそのうちに必ず壁にぶつかってしまうものなんだよ。その理由は、それまでは自分がお山の大将で一番だと思っているとね。もう一つ段階を上げて、そこで頑張ってみようとする。そうすると、今度はまわりは皆上手な人ばかりになってしまって、自分はその他大勢になるでしょう? その時、自分の壁にぶつかるんだ」
と言って、彼は少し考え込んだ。
「例えば、勉強のできる子が、一つランクを上げて受験をしたとしようか? 五分五分と言われているところを突破できれば、それだけで嬉しくなって、意気揚々と入学する。でも元々レベルの高い連中が普通に入学してくるんだから、最初からランクに差があるわけだよね。そうなると、成績はギリギリの底辺で何とかついていくことになる。それまで自分が一番だと思っていた中にいた人間がだよ。その状況に果たして耐えられるかな? 結局勉強しなくなって、道を踏み外す可能性が高くなるんじゃないかな?」
「なるほど、それはいえてるかm知れないわね」
「つまり、背伸びするのもいいんだけど、無理をしてしまうと、必ずどこかに歪が生まれる。それがどういうことなのか、理解できているかどうかが問題なんだよ」
と彼は強く言った。
「それで絵画を諦めたの?」
「諦めたというか、好きでやっていたというだけだったので、中学高校と勉強しなければいけなくなったので、少し封印していたような感じかな? 大学に入って少し無理のないようにやっていた程度なんだ。別にサークルに入ることもなくね」
「でも、ミステリーは書いたりしていたんでしょう?」
「うん、趣味は一つである必要はないしね。だから、どっちが本当の趣味なんだって聞かれると、どっちもだよとしか答えられない」
と俊一はしみじみと言った。
「それでいいと思うけどね。無理さえしなければ、私はいいと思う」
「綾音ちゃんは、何か無理なことをしているのかい?」
「そんなつもりはないんだけど、どうなのかは自分で判断するものでもないような気がするのよ」
と言っていた。
そんな会話があってしばらくしてからのことだった。近所の奥さんがちょうど買い物に出かけようとしている時のことだったように記憶している。
今までは俊一と綾音が仲良くなっていることを、近所の人たちに悟られないようにしようと、お互いに考えていた。別にどちらから言い出したというわけでもなく、何となくそういう雰囲気だった。
ただ、別に隠す必要があったとも思っていない。下手に後でバレて、変な詮索を受けるよりも最初からオープンにしておく方がいいのだろうという一致した意見が暗黙の了解だっただけである。
そんなわけで、今までは綾音はずっと留守をすることができなかった。なぜならプチがいたからである。誰かに預けるわけにはいかないと思っていたが、今はちょうどいい人がいる。それが俊一だった。
二人で一緒に出掛ける時は別だが、それ以外、例えば綾音が実家に帰ることが会った時などは、俊一が預かっておけばいいだけだし、俊一も慣れているので、別に問題はない。
プチの方も、別に綾音の部屋でなくても大丈夫なようで、特に完全になついている俊一の部屋であれば、相当リラックスできるようで、まるで自分の部屋のようにくつろいでいた。
実際に、綾音は一日、プチを俊一に預けてどうなるかを見てみたが、別に寂しがることもなく、安心していた。実に可愛いものである。
「綾音ちゃん、大丈夫だったよ」
というと、
「そうでしょうね。それだけ俊一さんに馴染んでいるのよ。私も嬉しいわ」
と言って、二人で笑いあったものだ。
綾音とプチが一人と一匹で、俊一の部屋に泊まったこともある。その時もプチは完全にくつろいでいた。却って、どちらが主人か分からないほどの態度に、俊一はおかしくてたまらなかった。
「お前がここの主みたいだな」
というと、プチはじっと見つめて、さも、
「当たり前でしょう?」
と言わんばかりに思えて、その姿も滑稽だった。
俊一も綾音も、それぞれお互いの部屋の合鍵を持っていた。それだけお互いに安心していたし、
「私が安心できるのはこの人しかいない」
と、二人はそれぞれに思っていたのだ。
もちろん、その間にはプチがいて、ひょっとすると、愛のきゅーっぴとは、このプチなんじゃないかと二人で感じていた。
「でもどうしてプチなんて名前つけたんだい? ラブラドールなんだから、大きくなるのは分かっていただろうに」
と俊一がいうと、
「ええ、分かっていたわ。分かっていて敢えて付けたのよ」
「どうして?」
「だって、大きくなってからこの子の小さかった頃のことを思い出そうとした時、プチって名前の方が思い出しやすいと思ったのよ。きっと赤ちゃんのお母さんになったみたいな気持ちだったのかも知れないわね」
「なるほど、綾音ちゃんはプチのお母さんだね。じゃあ、僕は?」
と俊一が言うと、
「お父さん」
と、一言答えてくれた。