短編集92(過去作品)
と感じたはずだったが、それを当事者になってしまった自分ではなかなか気付くものではない。
そのことに気付かせてくれたのは、因幡だったのかも知れない。あの男の厭らしいまでの視線を浴びていると逃げ出したくなる。だが、何とか耐えようとする中で、三郎との楽しかった日々のことが思い出されるのだ。
三郎と一緒にいるわけでもなく、あの頃の三郎でもない。
まずはあの頃の三郎を思い出そうとすると、知り合った頃の自分が思い出される。
――あの頃はまだ自分が従順だったわ――
と思い返してみて、どれが本当の自分なのかを考えてみる。
三郎とであった頃がつい最近のように思えていたのに、思い出そうとすればするほど、次第に記憶が遠くなっていくのだ。それだけ精神的に紆余曲折したのだろうが、因幡を見ていると、最近だったように思えるのだ。因幡の視線をずっと浴びてきたが、その間に精神状態が何度も変わった証拠であろう。
三郎は、何とか気付かせないようにしようとしているようだが、それも長くは続かなかった。
郁子が三郎の後ろに女性の影を感じてすぐのことだった。三郎は相手の女性に捨てられた。相手の女性を直接は知らなかったが、あまりいい噂を耳にすることはない。わがままで、見た目が派手で、男性関係も過去には激しかったようだ。
何よりも三郎よりもかなりの年上で、
「若い男を手の平の上で遊ばせた」
くらいにしか考えない女性のようだ。ちょっとした遊びだったに違いない。
ボロ雑巾のように捨てられた三郎が帰る場所は郁子のところしかない。
三郎は、郁子が自分の後ろに女性の影があることに気付いているのを知らないだろう。三郎はすぐに顔に出る方だが、もし知られていると思っていれば、すでにぎこちなくなっていたはずだ。少し他人の洞察力に疎いところのある三郎は、あまり表情を変えることのない郁子が自分の秘密に気付いているなど思いもしなかった。
三郎は、都合よく解釈する方である。決して褒められた性格ではないが、羨ましくもある。特に郁子は三郎のことなら大抵のことを許してきたので、都合よく解釈しても問題はなかった。
――従順でさえいればいいんだ――
と思っていたはずだ。そうすればうまく生活ができて、郁子に甘えられるからだ。
しかし、オトコとしての三郎が本当にそれで満足できたかどうか、今から考えれば浮気をしたのは、「魔が差した」としか言いようがない。
いつまでも従順な三郎は、心の中で、
――本当にこれでいいのかな――
と思い始めていたようだ。本人は気付いていなかったかも知れないが、他の女性を求めていたのは間違いないだろう。
声を掛けてきたのは相手の女性からだった。
「君はどうして僕に声を掛けたんだい?」
とベッドの中で聞くと、
「あなたがこっちを見る視線。それに引きつけられたからかな?」
と言って抱きついてきた。
そこまで言われると男冥利に尽きるというもの、相手の女は積極的な女性で、それでいて、相手を放っておけない優しさを持った女性なのだ。
郁子に感じる優しさとは少し違う。郁子は従順さを引き出すようにしながら、三郎を包み込む包容力を感じさせる。しかし、浮気相手の女性は、放っておけない気持ちを前面に出して、年上なのに同等か、あるいは年下のような甘えを見せてくれるところが、郁子の前では見せない男っぽさを見せることができて嬉しかった。
彼女のわがままなところは最初から気になっていたが、それも郁子相手に見せる従順さの裏返しで嬉しくもあった。
郁子の前では従順でいることが一番うまくいく秘訣だったが、本当は女性に従順でいるということが直接のストレスに繋がっていた。そのことをすぐには気付かなかったが、浮気相手の女性が現れたことで気がついたのは、実に皮肉なことだった。
浮気相手の女性は実は主婦だった。軽い火遊びのつもりだったのだろうが、あまりにも三郎が入れあげたために、少し窮屈になってきたようだ。
「こんなつもりじゃなかったのに」
まだ彼女が主婦だと知る前に言われたことがあった。
「こんなつもりって?」
まずかったと思ったのか、
「あっ、いえ何でもないの」
すぐにこのことは忘れてしまったが、主婦だと告白されて、最初に思い出したのは、この時のシーンだったのだ。
バカにされたと最初に三郎は感じた。郁子に従順になったのは、相手をすぐに信用してしまうバカ正直なところがあるからだ。しかも今度も同じように安らぎを求めていたはずの相手から裏切られた。今度は弁解の余地もない。何しろ浮気をしたのは事実なのだから……。
――郁子のところがやっぱりよかった――
三郎はそう感じたに違いない。
郁子は何も知らないはずだと思い込んでいたのは、郁子を甘く見ているというよりも、自分の考えが甘いのだ。そのことに三郎は気付かない。
三郎は鈍感な方だった。甘えも鈍感な性格から芽生えるものなのかも知れない。気付かないのをいいことに主婦にもてあそばれたと感じた三郎だったが、郁子が気付いていないと思うのもおめでたい話である。
相手の女は、あまりにも鈍感な三郎と一緒にいることが、急に怖くなったのだ。最初の頃はよかったのだが、そのうちに何をしても従順さの抜けない三郎に張り合いをなくしてしまった。張り合いがない時というのは気持ちに余裕が生まれるが、歯ごたえのない余裕は却って我に返るきっかけを与えてしまう。
――こんなことをしていていいのかしら――
当然感じることだろう。急に怖さが生まれてくるのも無理のないことだ。
女は三郎に対して弱みを見せないようにしていた。見せると何をするか分からないところがあったからだ。それは弱さの裏返しで、時々、
――どうしてこの人を浮気相手に選んだんだろう――
と感じていた。
女のそんな気持ちを知ってか知らずか三郎は、相手の女が自分に首っ丈であると信じて疑わなかった。
その感情は最初に郁子に感じたものである。今でも変わっていないだろう。だがそんな郁子を裏切ったという意識がないところが、三郎の性格の一つで、分かりやすい性格であるくせに、相手に気付かれないと真剣に思っているところが、子供っぽい。そんなあどけなさを好きになったのが、郁子だったのだ。
郁子のところに戻ってきた三郎を見て、果たして郁子はどう感じたことだろう。
それまで楽しかった時のことを一生懸命に思い出そうとしていた郁子は、三郎の背中をじっと見つめていた。
目の前からは太陽が当たる。三郎の後姿に後光が差したように見えることで、少し体格が大きく見える。影絵が映し出す魔法のようなものだ。
だが、実際に帰ってきた三郎の何と小さく見えることか。
感情が表に出ない郁子は、感じていることで相手の姿が大きく見えたり小さく見えたりしていた。そばにいない時はいろいろ想像するので、実際よりも大きく見えていて、しかも時間が経つにつれて次第に大きくなっていく。
しかし実際に姿を見てしまうと、想像とのギャップの激しさにビックリしてしまうほどで、今回のように女に裏切られ、負け犬のように帰ってきた男が大きく見えるはずなどない。
――こんなに小さな人だったんだ――
作品名:短編集92(過去作品) 作家名:森本晃次