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短編集92(過去作品)

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 男性に身を委ねている時も、ある意味気持ちに余裕があった。しかし、それは相手の術中にあるもので、自分の中でだけ感じているものではなかった。
――男性に身を委ね、得られた快感を貪っている時の私は、普段の自分ではないに違いない――
 と感じていたからだ。
 従順な彼を手なずけることに成功し、女王様気分だった。
 雲の上にいると、下がどうなっているか分からないもの。郁子も有頂天になっていて、まわりの変化に気付いていなかった。
 会社では因幡の視線が気になることはなくなったが、それはきっと自分の視線が変わったからだろう。三郎と同棲を始めるまでは、オドオドした視線でまわりを気にしていただろう。それを否定することはできない。しかし、今の視線は、男を近づけない視線になっているかも知れない。
――男なんて、こうやって手なずけてしまえば、ちょろいもの――
 と思っていた自分が恐ろしい。
 会社には昔からの事務員がいるが、いわゆるお局様と呼ばれる人である。彼女には男も女も一目置いているが、郁子だけは少し違う。
「あなたには、どこか似たところがありそうね」
 一度給湯室で二人きりになった時に言われた。誰も彼女と二人きりになりたくないという思いから、給湯室に女性一人でいることはない。他の女性事務員たちとも一線を画していた郁子だけに、お局様が話しかけてきたのだった。
「あなたも寂しいのかしらね」
 弱気になっている彼女を見たのは初めてだ。寂しいなどとは思ったことがない。何しろ郁子には三郎がいるからだ。
 しかし、お局様からよく似ていると言われ、寂しいのねと言われるということは、心のどこかに隙のようなものがあるのではないだろうか。三郎と一緒に住むことで、寂しさを紛らわしている。今まで寂しいと思ったことのなかった郁子だが、少しお局様の言葉に考えるところが生まれたのも事実であった。
 そんな郁子の気持ちを知ってか知らずか、その頃から三郎は徐々に変わっていった。
 少し頼りないところはあっても、仕事をしっかりとこなし、真面目がとりえだったにもかかわらず、ある日会社を辞めてきたのだ。
「あんな会社、辞めてやったよ」
「どうしてなの? あれだけ真面目に働いていたのに」
 仕事をするのが嫌いではないはずの三郎。嫌になったとすれば人間関係だろう。確かに静かなところはあるが、男の人の間では、それほど嫌われるタイプではない。きっと何か予期せぬことが起こったに違いない。
「俺が悪いんじゃないんだ」
「じゃあ、どうしてなの?」
 三郎は言葉が出てこない。言い訳をするのが嫌なのだろう。特にいつも言葉では勝てない郁子に問い詰められれば、追い込まれていくのは火を見るよりも明らかだ。
 それからの三郎は口を閉ざしてしまって、貝になってしまった。喋らない時は、いくら何を言っても自分から喋ろうと思わない限り、何を言っても駄目である。
 後で聞いた話によると、喧嘩両成敗で、どちらが悪いとはも言えないと言いながらも、三郎に非のないことを暗に仄めかしていた。
「やつはある意味では巻き込まれたんだ。彼も被害者かもな」
 と言われてしまえば、急に三郎が気の毒に見えてくる。母性本能の成せる業だろう。
 同情したって仕方がないのに、どうしても贔屓目に見てしまうのは、郁子の優しさだろうか。
――自分にこんな優しさがあったなんて――
 と今さらながらに思い知らされた。
 それからの三郎は人が変わってしまった。職を探してきても長続きせず、そのうちに職を探すことをやめてしまった。元々専門的に何かを勉強し、資格を取っているわけではないので、就職もなかなか見つからない。思っていた以上に職のなさにビックリしていた。
 三郎の落ち込みようは、日に日にひどいものになっていった。あまり明るい方ではないところに持ってきて、さらに落ち込んでしまうのでは見ているだけで息苦しさを感じてくる。郁子にとっても辛い日々が続いた。
「とりあえず、私がしっかり働くから、あなたも頑張って職を探してね」
 と声を掛けるしかない自分が情けなくなっていた。
 しばらくすると、その環境にも慣れてきた郁子は、
――自分が養っているんだ――
 という優越感に浸るようになっていた。おかしなもので、優越感が今の自分を支えていると思っていると、人に対して優しくなれる。会社でも人に気を遣うようになり、信頼されているようだ。
 会社の誰も二人のことは知らない。郁子はプライベートなことをまったく顔に出したりはしない。それは同棲を始める前からで、就職してからずっとである。だから誰も怪しむことはなく、少し雰囲気が変わっても、それほど気にする人はいなかった。
 だが、仕事をしていれば会社を辞めたくなった三郎の気持ちも分かってくる。あまり人と話すことをしない郁子であったが、お局様に言われたように「寂しさ」が滲み出ているように見えるようだ。自分が当事者にならなくとも、人間関係のドロドロしたところを表から見ているだけでも、嫌な表情をしているのではないかと思うことがある。まるで苦虫を噛み潰したような表情をしていることであろう。
――三郎を責めることはできない――
 それは分かりきっていることだった。三郎がもし会社を辞めていなければ、自分もいつまで仕事を続けられるか分からないと思っていた。いくら仕事が嫌いではないと言っても所詮は女性、どこかで甘えが出てしまって、急に辞めたいと思うこともあるに違いない。それを思うと仕事を続けているのも、三郎のおかげと言えなくもない。おかしな考えかただ。
 だが、それもしばらくのことだった。三郎という男性は、郁子が思っていたよりも結構器が小さかったのかも知れない。それとも、郁子が結果的に甘やかしたことになるのだろうか、次第に仕事もせずに、ギャンブルにのめりこむようになっていった。
 郁子はそのことに最初は気付かなかった。職探しが思ったよりも辛いものであることを郁子自身分かっていない。特に暑い時など、当てもなく彷徨い歩く気分は、まるで砂漠の中を歩いているような孤独感を感じるほどだ。
 まわりに人がいても、彼らは職を持っていてまともに生活をしている人たちだ。自分は職もなく彷徨い歩いているのだから、知っている場所であっても、まったく知らない世界を歩いているような気分になってしまう。相当な辛さである。
 三郎がギャンブルに足を踏み入れたのは、パチンコからだった。
 元々トイレを借りるつもりで入ったパチンコ屋、それまで仕事をしている時でも入ったことのないパチンコ屋だった。
 仕事をしている時の三郎は倹約家だった。無駄遣いをすることもなく、おしゃれに興味があるわけでもない。もちろんギャンブルをすることもなかったので、それこそ一人での生活に慣れていた。
 自分の立場に三郎は気付いていない。きっと「ヒモ」と言われても自分のことだとは分からないだろう。次第に自分の感情とは違うところに行ってしまいようで、三郎自身、自分が怖かった。
 三郎がギャンブルにうつつをぬかしていることに気付いた郁子は、さすがにショックを受けていた。しかし、その時の三郎は精神的に病んでいるのが分かっていて、いくら諭しても寝耳に水である。
作品名:短編集92(過去作品) 作家名:森本晃次