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短編集92(過去作品)

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「自分のことが分からないから、人のことを考えられるのかも知れないわ」
「気持ちの余裕ということかい?」
「そうですね」
 と一言で締めくくったが、それもおかしい。自分のことが分からないと普通は自分のことばかりを考えようとして頭の中がパニックになるはずだ。
――ひょっとして涼子は自分のことを他人事のように思っているのかも知れない――
 と思うようになっていた。
 他人事のように思うことができる人がある意味羨ましい中西だった。どこか涼子を見ていて逆に他人のように思えないのは、時々中西自身、自分のことを他人事にしか思えない時があるからだ。
 何か大きな失敗をしたり、失恋をしたりした時に現実逃避に近い感覚に陥る時があるが、そんな時に他人事として頭で解決しようとしている自分がいることに気付いている人がどれだけいるだろう。きっと皆も同じ気持ちなのだろうが、口に出さないだけに分からない。口に出すことをタブーだと思っているのだ。
――涼子は自分と同じ感覚を持っているのだ――
 そう中西が感じているのと同じで、涼子もきっと同じように思っているに違いない。だからお互いに気持ちが通じ合うのだろう。それを中西は感性のようなものだと思っている。
 その日を境に中西と涼子は一気に親密になっていった。しかし、あまりベタベタした感覚もなく、無理も言わない。お互いの気持ちを優先させているにもかかわらず、どちらかが会いたいと思った時には相手も同じ気持ちなのだ。
「バイオリズムが合っているのかもよ?」
 と中西がおどけて言うが、涼子もまんざらでもない。本当にそう思っているに違いない。
 身体の相性もピッタリだった。お互いに無言であっても、気持ちは一つだと思える仲になっていた。会話を始めれば弾むのは分かっているが、お互いに見つめあうだけで流れていく時間が増えてもきていた。
「涼子……」
「慎吾さん……」
 それだけで十分だった。後は夜とともに更ける時間を長いとも短いとも感じる間もなく過ごしていた。目が覚めてから初めて、
――短かったんだ――
 と感じるのだ。
 楽しい時間はあまり長くは続かないと以前から思っていたせいなのか、涼子は中西を避けるようになった。それも徐々にではなく、いきなりである。
「お前は女心に関しては鈍感だからな」
 と大学時代から言われていた。大学時代にも付き合っていた女性の方から離れていくことが多く、その理由について自分で分からないことが多かった。
――自意識過剰なのかな――
 と感じることもあった。付き合い始めると、確かに最初の頃のような気の遣い方はしないようになっていくのは、中西だけではないだろう。まるで釣った魚に餌をやらないのたとえではないが、女性に優しくないのかも知れない。付き合い始めるまでと付き合い始めてからの態度が露骨に違ったに違いなかった。
 だが、涼子に関しては違ったはずだ。
 彼女を好きになった理由もハッキリしている。確かに自分にとっての理想の女性だというのがきっかけだが、彼女から与えられた気持ちの余裕が一番だっただろう。もちろん身体の相性はピッタリでお互いに身体と気持ちの余裕を共有していたと思っていたはずだ。そんな涼子が中西の前から離れていった。
 以前であれば、頭の中が真っ白になり、すぐに追いかけたであろう。しかし、その時の中西は思ったより落ち着いていた。
 頭の中が真っ白になる理由として、まず自分から離れていったことを知った瞬間に、それまで楽しかった光景が頭に浮かぶからである。しかも、想像力を膨らませることが多い中西は、これから訪れる楽しいことに対して思いを巡らせていたからである。
――神経質な性格が災いしているのかな――
 神経質な性格は、えてして悪い方へ考え始めると、とことんまで悪い方へと考えてしまうことが多い。何かに集中していても集中力が散漫になり、覚えていないことが多い。
 中西は、記憶力が決していい方ではない。最近は、ほとんど覚えられないといってもいいくらいだ。それも涼子と出会ってから感じるようになっていた。気持ちに余裕を持つことで記憶力も戻ってくるのではないかという淡い期待もしていた。
 そのかわり、中西には想像力があった。本を読んでいて読んでいく端から忘れていくのだが、読みながらいろいろな発想を思い浮かべているのも事実である。
――女性っぽいところがあるのかも知れないな――
 本を読んでいてメルヘンチックな発想をしていて、思わず苦笑いをすることもある。神経質な性格とは裏腹で、ある意味二重人格性があるのだろう。女性が離れていく原因の一つに、二重人格性があるのではないかと思う中西だった。
 自己分析は自分の気持ちを袋小路に入り込ませることは分かっている。だからこそ、まわりから見ていて悩んでいるように見えるのだろうが、果たして中西の悩みは他の人が見ていて自分で感じているよりも深いものなのだろうか。あまりまわりの目を気にしない中西だったが、自己分析をしていて悩んでいる時は、まわりの目が気になってしまう。
――やっぱり、自分は涼子が忘れられない――
 と思い、ミモザに足を向わせた。
 涼子と会って、最初に何て言おうかそればかり考えていた。まるで詰め将棋のように最初に打つ手が決まれば先を読むこともできるだろうが、最初の第一声に対する反応を考えてしまうと、そこから先は読むことができない。
 実際にミモザに足を踏み入れて中を見渡すが、涼子はいない。
 ホッとしている自分にも気付く。会って第一声を思い悩んでいただけに、ホッとしてしまうのも当然だろう。しかし、すぐに自分の目的を果たすことのできないやるせなさが襲ってくる。
 嫌な予感に苛まれていた。どこから来るのか、ハッキリと形になっているわけではない嫌な予感が、じわじわと中西を苛む。
 それから何度かミモザに顔を出すが、涼子と出会うことはなかった。涼子がいなければミモザでは無口になってしまう。ほとんど誰とも喋らず、雑誌や本を読みながらコーヒーを飲んでいるだけである。
 常連客というのは二つのパターンがある。それを中西は犬型と猫型だと思っていた。
 人につくのが犬型、家につくのが猫型。ミモザに来る常連の中で、中西は犬型だった。マスターや涼子との会話を楽しみにいくのが一番の楽しみだからである。
 しかし、今の中西は完全に猫型になっている。以前から喫茶店の雰囲気は好きで雰囲気を味わうのも店に来る目的の一つだったが、黙って本や雑誌を読んでいる人を見ていて何も感じなかったのも事実である。同じ常連でも、種類の違う常連として見ていたせいで、まさか自分が猫型の常連として店にいることになるなど思いもしなかった。
 それにしてもなかなか涼子は現われない。
――いつでも会える距離にいたはずなのに――
 だからこそ、ミモザにもあまり顔を出していなかった。まるで別の店になってしまったような感覚である。
 マスターに彼女のことを尋ねてみると、
「最近何かに悩んでいたようです。今は試験中ということでお休みしていますが、以前は試験中でも来てくれていたんですけどね」
 という答えが返ってきた。
作品名:短編集92(過去作品) 作家名:森本晃次