短編集92(過去作品)
有頂天だったが、仕事は中途半端ではない。キッチリできているし、捗り方も以前とは違う。きっと精神的にいい方向への相乗効果が生まれているんだろう。
仕事をしていても思い浮かぶのは涼子の表情ばかりである。自分が好きなタイプの女性が涼子だったと実感したのは、実際に表情を見ている時よりも、喫茶店から離れて顔を思い出している時だというのは実に面白い。いくつかの表情がスライド映像のように浮かんでくるが、動いている表情とは違う雰囲気を醸し出している。きっとスナップ写真などでもそうだろうが、気に入ったショットが頭に浮かんでいて、動いている流れだと気に入ったショットを見逃すこともありそうだ。そういう意味でのスナップは、素敵なイメージをいつまでも大切にできる。
涼子とのデートは、まるで大学時代を思い出させるものだった。初めて付き合った女性のときのように喫茶店から映画を見たりと、少し古臭いと思われそうなデートでも、涼子は楽しそうである。
――やっぱり思ったとおり気が合いそうだ――
と思ったのも当然である。今時のデートがあまりよく分からない中西は、あまり会話が弾まないとすぐに身体を求めてしまいがちな自分の性格が嫌いだった。今までにそんな中西を察して、付き合う前から離れていった女性も数知れず、今でこそ大学時代のことだと言えるのだが、いざ同じ環境になると自分を抑えられるか心配でもあった。
涼子はそんな自分を引き出させる女性ではない。あどけなさが残る自分のイメージの中では最高の女性だと思っている。
涼子をデートに誘うのにもかなりの勇気がいった。それはどうしても女性を見ている自分の目が厭らしい目ではないかと思えるからだ。大学時代に付き合った女性のほとんどとは身体の関係になっていた。相手が求めてきたこともあったが、本当に自分の望んだ関係だったかどうか、付き合いながらでも自問自答を繰り返す。なぜなら、ほとんど彼女たちとは、身体の関係だけで結びついていた時期が長かったからだ。
――すでに気持ちは離れているのに――
と思いながら、身体が忘れられない。相手も同じことを感じているが、会えば身体を重ねてしまう。
連絡はどちらからということもなく、まるでお互いに引き寄せられるように会ってしまう。悪いことなのかどうなのか分からない。そんな関係を続けてきたのだ。
忘れかけていた女性に対する愛情。普通のデートなどまるで子供の遊びだというくらいに思っていた中西が、涼子とのデートで女性を意識し始めた頃の自分に戻っていた。
季節が気持ちに余裕を持たせてくれたのだろう。女性の肉体を欲しながら、気持ちに余裕を持ちたいと思っていた証拠である。夕方になりネオンサインが目立ち始めると、さすがに寒さを感じる時期になっていた。
夜の公園は少し肌寒いが、ベンチに座って話をしているとそれほど寒さを感じない。少し会話が減ってきたようだが、何やらソワソワしているのが感じられた。
「どうしたんだい?」
「私、自分のことで悩んでいることがあるの。聞いてくださる?」
「どういうことだい?」
意を決したかのように涼子は目の前を見つめると、
「私ね、最近不完全な人間じゃないかって感じることがあるの」
「不完全?」
「ええ、いつも自分にとって大切なことを忘れてしまうのよ。覚えていなければいけないことをその時は、絶対に忘れないはずだって思うんだけど、少ししたら忘れているの。それも誰かに指摘されても思い出せないのよ」
普通覚えていなければならないことなどを聞くと、ハッキリとは覚えていないまでも、記憶の奥に封印されているはずなので、誰かに指摘されれば思い出すはずである。それを思い出さないということは、まるで記憶喪失に近いイメージなのだろうか。
「忘れてしまっているって、まったく思い出せないの?」
「ええ、そうなの。だから自分に集中力がないからなのかって真剣に悩んだりしたわ。それでメモに残したりしてみたんだけど、後でそのメモを見ても思い出せないのよ。変でしょ?」
「それって、ほとんどのことを覚えていないのかい?」
「そうでもないんですよ。肝心なことを覚えていないことが多いんですよ。いつもということでもなくて、そのことすべてというわけじゃないんですよ。例えば人の顔を覚えられないのもその一つかも知れないわ」
中西も人の顔を覚えるのは苦手な方だ。営業ではあまりいいことではないが、
――覚えておかないといけない――
と思えば思うほど覚えられない。涼子も同じではないだろうか。
「あまり意識しすぎない方がいいと思うよ。一過性のものかも知れないしね」
下手なことも言えないし、少し返事に困ってしまった。だが、涼子も最初ほどソワソワしなくなった。
「お話して気が楽になったのかしら。それとも中西さんといると安心するからかしら。落ち着いてきました」
「それはよかったね。僕もそう言ってもらえると嬉しいよ」
「私ね。自分のことが覚えられないかわりに、人のことがよく分かるの。予知できるっていうのかしら?」
「反動のようなものなのかな?」
「どうなのかしら? でも、それもたまになのよ。これも不思議な能力になるのかしらね」
「分かるのはもちろん他の人のことなんだよね?」
「ええ、そうなの。自分のことは分からないの」
と言って、照れくさそうに頭を掻いていた。
そういえば今までにも同じような光景を見たことがあった。
照れくさそうに笑う女性にはあどけなさを感じる。今まで付き合った女性にそんなあどけなさを感じる人はいなかった。どちらかというと大人しめのしたたかな女性が多かった。
――きっと夢で見たんだ――
最近の夢というと大学時代の夢が多い。大学時代の友達が多く出てくるのだが、皆卒業している。しかし自分だけ学生を続けているというシチュエーションなのだが、頭の中では社会人だという矛盾が渦巻いているのだ。
大学時代に戻りたいからそんな夢を見るわけではない。大学時代の勉強についていけなかったところがあったからだ。高校時代までの詰め込み教育ではなく、柔軟な発想を必要とする試験には慣れていない。どちらかというと暗記ものなどのように勉強の成果がすぐに現われる方が性に合っていた。
そんな大学時代の自分を憂いて見る夢なのだ。だから自分だけが大学生で、まわりから取り残された気分の夢を見る。起きてから、
――ふう、助かった――
とばかりに胸を撫で下ろし、大きく溜息をつく。身体にはベッタリと汗を掻いていて、目が覚めるにしたがっていつもは忘れていくはずの夢が、いつまでも記憶に残っていたりするのだ。
そんな夢の中に出てきた女性が、
「私、他人の未来が分かるの。自分の未来は分からないんだけどね」
と照れ笑いをしながら話している。その顔はなぜか思い出せない。表情は間違いなく照れ笑いなのだが、あどけなさを感じる顔であるのだけは分かっている。
そんなことを思い出しながら、涼子の顔を覗き込んだ。
「ある意味うまくできてるのよ。自分のことは分からないのに、人のことが分かるなんてね」
本心から言っているのではないことは当然としても、よくよく考えると理屈にあっているのかも知れない。
作品名:短編集92(過去作品) 作家名:森本晃次