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短編集92(過去作品)

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 抱いた女性の数は、片手では足りないだろう。そこに愛情があったかと言われれば疑問である。最初に抱いた女性に愛情を感じていただろうが、相手が感じていたかどうかは分からない。
「男女の関係なんて行き違いばかりかも知れないな」
 と言っていた友達がいたが、あながち間違いではないだろう。
 美佐子という女性を意識していたのは間違いない。まだ女性を知らなかった高校時代のことなので、女性として見ていたとは言いがたい。だが、あどけなさの中に潜むジャスミンの香りにも似た芳香は今でも忘れられない。
 今までの女性の中で、芳香が忘れられない女性もいた。きんもくせいのような香りを漂わせる女性で、彼女も忘れられない一人である。
 お姉さんのような雰囲気を漂わせている彼女に出会ったのは大学二年の春だった。陣内にとって初めての女性、忘れようとしても忘れられないのも当たり前である。
 出会った時に感じたあどけなさも、芳香によって大人の女性の雰囲気に隠されてしまう。彼女のような女性とは、二度と出会うことのないだろう。そんな感じを匂わせる女性だった。彼女とは数回身体を重ねたが、別れも突然だった。お互いに臆病になっていたのかも知れない。別れを言い出したのはどちらからだったか忘れたが、どちらが言い出しても不思議のない関係だったに違いない。お互いにホッとした表情だったことだろう。
 陣内と美佐子は、再会したその日、まずは喫茶店で他愛もない話に花を咲かせた。時々見せる寂しそうな表情に大人の雰囲気を感じながら、一番聞いてみたい核心部分になるべく触れないようにしていた。
――この落ち着きを見ていると、結婚していると考えるべきだろう。しかし、落ち着き過ぎている。離婚も経験しているかも知れない――
 という思いが巡った。
 離婚した女性がどんな雰囲気なのか、陣内には分かっていない。結婚に対して執着はないが、離婚に関してはどこか偏見を持っている。今の世の中、離婚など珍しくもないが、お互いに貫徹できないことに苛立ちを覚えるのだ。
――離婚しようと思って結婚する人はいないだろうが、離婚した先に何があるというのだ――
 と考えてしまう。やはり結婚というものは独身男性には分からないものなのだろう。
 他愛もない話に花を咲かせている間は懐かしさだけが支配している空気に包まれていた。しかし、どちらかが話に疲れてくると、重い空気が漂い始める。それまでが軽い空気だっただけに、重い空気の存在に気付くのはすぐだった。
 言葉がどちらからともなく出てこないと、ゆっくりとした時間が流れてくる。しかし、その空気は自然なもので、それだけに気持ちを感じようと必死になっていることが、相手に伝わってくる。
 きっと同じ考えでいるからだろう。目を合わせたくないと思いながらも見つめた目から視線を離すことはできない。
 重たい空気は湿気を帯びていて、潤んだ瞳は自分の姿を映し出している。まるで訴えているような瞳に吸い寄せられたのか、気がつけば唇を塞いでいた。目を閉じて頬を紅潮させている美佐子の姿が思い浮かんでいた。
 高校時代に感じたあどけなさ、今の美佐子にはある。唇を塞ぐことでお互い高校時代の初々しい自分に戻った気がしているのかも知れない。陣内も無意識な震えを感じていた。
 気がつけば美佐子を抱いていた。どうやってホテルに入ったのかすら覚えていない。お互いに何の違和感も感じずに本能のままの行動、まさしくその通りだろう。
 貪るように相手を求める。男はオオカミのような荒々しさで、女は豹のようなしなやかさがバランスよく身体の隙間を埋め尽くし、空気の入る余地を与えない。
 そこまで密着させた身体は、お互いの体温が調和しているようだ。熱くなっているはずの身体は、お互いの肌と肌の体温で打ち消される。合わせている肌を感じないほどだ。
 最初は二オクターブくらい高い声が漏れていた。まるで少女の恥じらいを思わせたが、次第に声がハスキーになっていって、重く湿った空気をさらに重たくしている。
 その声を聞いていて、美佐子の快感は頂点に達しようとしていることを感じると、後は身体の動きを早めるだけだった。
 美佐子の身体は密着を離されまいと動きについてくる。お互いの気持ちが最高潮に達したと感じた時、上り詰めた満足感に満たされていた。
 後には暗く冷えた空気が残ってしまった。しかし、満足感に満ち溢れたもので、果てた後の気だるさが心地よさを運んでくる。あまりなかったことだった。
 美佐子の頭が左胸にのしかかってくる。重たさを感じないほど、快感に酔っていたが、密着した身体を少しでも離すと、汗が一気に吹き出してきそうな気がした。身体を密着させることでお互いに体温を共有しているようだ。
 しばし感覚が麻痺した身体を楽しんでいたが、気がつけば眠っていたかも知れない。
――先に目を覚ましたのはどっちだったのだろう――
 目が覚めて横で寝息を立てていると思っていた美佐子を覗き込むと、同じようにこちらを見上げて微笑んでいる美佐子と目が合った。唇が怪しく歪んだように見えるのは、その場の雰囲気により妖艶に見えただけではないかも知れない。
「お目覚めになられた?」
「ああ、君も今目が覚めたのかい?」
「ええ、あなたも一緒だったのね?」
「そのようだね。お互いに気が合うみたいだ。ところで君は最初からこうなることを望んでいたのかい?」
 すると下を向いてしばらく考えるかのように見えたが、すぐに頭を上げると、
「ええ、そうかも知れないわね。はしたない女なのかもよ?」
「はしたない? 君は本当にそう思っているのかい?」
「ええ」
 ここではしたない女というのを肯定されてしまっては、自分の立場がない気がした。だが、本当はそうではない。お互いに気持ちが盛り上がっていたのだから、陣内にとっては忘れられない人と忘れられない夜を過ごしたことに喜びを感じていたいのだ。
 身体に十分な余韻が残っているはずだ。その証拠に美佐子は身体を密着されたまま離れようとしない。もちろん、陣内も同じである。
「今日、二人が出会ったのは偶然じゃない気がするんだ」
 陣内には運命的なものがあった。運命でなければ、二十年近くも来たこともないところで、一番会ってみたい人に出会えるはずもない。美佐子にも同じ運命を感じてほしかった。
「そうね。きっと運命ね」
 と、言った美佐子の目は虚ろで、あらぬ方向を見つめていた。まるで魔法に掛かったかのような目をしている。果たして、その魔法を掛けたのは陣内である。そのことに陣内は満足していた。
――僕も君の魔法に掛かりっぱなしさ――
 と、歯が浮いてきそうなセリフが思わず口から出てくるのを抑えていた。
 美佐子にとっての陣内、陣内にとっての美佐子、出会ったことに意味がある。ましてや夢にまで見た美佐子の身体、夢と寸分狂っていなかった感覚は、まるで本当に夢を見ているかのようだった。
 美佐子の身体はまるで軟体動物のように、予測不可能なごとくに蠢いていたが、そのすべてが寸前に陣内には分かっていた。分かっていてあえて予測不可能だと思いながら、美佐子の身体を貪っていたのだ。
「私ね。実は結婚しているの」
作品名:短編集92(過去作品) 作家名:森本晃次