失われたあの夏
『敦と静香』とひとくくりにして呼んだのはそのせいだ。
「お前、夏休みは?」
「月並みにお盆の前後さ」
「俺もだよ、帰省はするのか?」
「そのつもりだけど?」
「行ってみないか? あのグラウンドに」
「学校か……そう言えば卒業以来一回も行ってないな、確かに懐かしいよ」
「どのみち帰省するんなら、行ってみようぜ、敦と静香も誘ってさ」
「そうだな、あいつらとも結婚式以来会ってないしな……」
敦、静香に連絡すると、彼らもぜひ学校で会いたいと言う。
それぞれのスケジュールを調整して日取りを決め、俺と正樹は待ち合わせて新幹線に乗り込んだ。
「やあ」
「よう」
「おう」
タクシーで校門に着くと、既に敦と静香はそこで待っていてくれた。
俺たちの挨拶は高校時代のまま、一瞬で10年の時を遡ったのだ。
「お久しぶりっ」
静香だけは奥様らしくちゃんと挨拶をしたが、口調は高校時代の「おはよっ」とあまり変わらない。
「失礼します」
「おお、来たか」
職員室の引き戸を開けると、出迎えてくれたのは当時からの英語教師、監督は転任でもうこの学校にはいないが、今はこの英語教師が監督を務めている。
OB、OGと言えども許可もなく勝手に教室やグラウンドをうろつくわけにも行かないので、あらかじめ連絡を取ってあったのだ。
「ほら、部室の鍵だ」
「え? いいんですか?」
「グラウンドにも出たいんだろう? どうせならキャッチボール位したいだろう?」
「ありがとうございます」
「ははは、部室のこの匂い、変わらないな」
「そう? あの頃はあたしがお掃除してあげてたからここまで匂わなかったわよ」
「そうだったな、ありがとう。 でもグラブの皮の匂い、ロージンの匂いとかは変わらないだろ?」
「脱いだ靴下は散乱してなかったけどね」
静香が笑う。
静香も交えて四人で一つのボールを使ってキャッチボール。
「硬球を握るのは高校以来だよ」
「お前ら、大学では野球部に入ろうとは思わなかったのか? 二人とも六大学だろ?」
「一応見学くらいはしたけどな、4年間あの練習をするモチベーションはどこを探してもなかったよ」
「俺と正樹は浪人したしな、敦こそどうなんだ? 現役合格だったし、こう言っちゃなんだけど、静大の野球部だったら続けられたんじゃないのか?」
「お袋に負担はかけられないさ」
「それもそうか……」
ちょっとの間、ボールを捕る音だけが響いていたが、静香がそれを破ってくれた
「高校時代はキャッチボールに混ぜてもらうことも出来なかったから楽しいわ、硬球をパシって捕るのってこういう感覚だったのね、ちょっと痛いけど気持ち良いわ」
俺たちはもうしばしキャッチボールを楽しむと、二手に分かれた。
「遅いなぁ、蠅がとまるよ」
「何とでも言え、10年ぶりのピッチングだからな……これならどうだっ」
「お、スライダーはまだ曲がるな」
敦と正樹は10年ぶりのバッテリーを組んだ。
「脚、もつれそうよ」
「そうでもないだろ? 今だってダッシュすることくらいあるんだぜ」
「朝の駅ででしょ? あの頃のフットワークを望むのは無理と言うものね」
「それは否定できないな」
静香にゴロを投げてもらって、俺はショートからの眺めを楽しんでいた、グラブさばきは身体が憶えていたようで、すぐに思い出せたが、静香が言うように脚はあの頃のものではなくなっていた。
「そろそろ行くか」
「待てよ、硬球を打つ感触をまだ味わってないぜ」
「それもそうだな」
「俺もバッターに投げてみたいよ、ヘボいだろうけどさ」
「ヒョロヒョロ球が何を言う」
正樹が投げて俺と敦が打ち、正樹には俺が投げてやった。
「静香も打てば?」
「うん、硬球を打つのは初めて、軟球ならバッティングセンターで打ったけど」
たぶんデートコースの一つにバッティングセンターも入っていたんだろう、静香は思ったよりもずっとうまく打った、もっとも芯を外した時の痺れはお気に召さなかったようだが。
「床、張り替えたのかな」
「ああ、電気配線のためにな、県で予算を付けた」
「そうか、今や生徒一人一人にパソコンが必須だからな」
グラウンドを整備して教室に行ってみると、当時とは机も一新されていた。
「でも教室そのものは変わってないな」
「まあ、建て替えない限りは大きくは変わらないさ」
「ああ、なんか若返った気分、あの頃に戻りたいわね」
「さてはダンナに飽きたか」
「ふふふ、さぁね」
そう言う静香の顔は笑っている。
「さて、教室の雰囲気を満喫したら、次はあそこだな」
「ああ、もう昼時過ぎて腹もペコペコだしな」
『あそこ』と言うのは駅前のサイ〇リヤだ。
値段も安く、ドリンクバーだけでも粘れるので良くたむろした。
「駅前もあまり変わらないな」
「建物とかバスターミナルはな、だけど店はずいぶん入れ替わったぜ」
「そうだな、あの年は空き店舗も目立ってたしな」
駅前のビルには居酒屋が目立って多かったのだが、あのあと数年続いたコロナ禍のせいか、店舗は大幅に入れ替わり、居酒屋だったフロアで物販店に衣替えしたところも多い。
だが、サイ〇リヤは変わらずそこにあった、アルコールで稼ぐ店ではなかったし、競合するファミレスもなかったので生き残れたのだろう。
店内に入ると、10年前と全く同じというわけではないが、雰囲気は変わっていない。
土日の練習後など、良くこの4人でテーブルを囲んだものだ……ピザとドリンクバーだけで2時間も……まあ、夕食時で混み始める前に席を立てば店からも何も言われなかった。
敦は静香を奥に座らせてすっと隣に座る……夫婦が板について来たようで、時間の流れを感じた……あの頃はそれこそ適当に席に着いたものだったが。
「俺たちもここに来るのは久しぶりだよ、やっぱりピザは外せないな」
「でもお昼ごはんには足りないでしょ? ピザ2枚とってシェアするのは?」
「いいね……主婦が板について来たかな?」
「おあいにく様、東京じゃ知らないけど、ここらの主婦はめったに外食なんかしないわよ」
「それはおみそれしました」
俺はそう言って笑ったが、店内には主婦と思しきグループが何組もいる、静香は敦の両親の世話をしてやっているんだろう、静香なら適任だが、敦がそんな理由で静香と結婚したとも思えない……いずれにせよ看護婦の仕事を続けながらだから頭が下がる。
思い思いの料理を注文して遅い昼食を食べながらまずはそれぞれの近況報告、そして追加注文のピザが運ばれて来ると、思いは10年前に飛んで行く。
「監督から中止決定を聞いた時、一番泣いてたのは静香だったよな」
「だって、みんながどんな思いで続けてたのか知ってたから……でもね、当人たちはそれこそ涙も出ないくらいショックだったんじゃない?」
「確かにね、1年間流した汗が無駄になった瞬間だったからね、呆然としたよ」
「もしかしたらとは思ってたけどな、それでもガーンと来たね……敦は?」
「7割方中止になるんじゃないかって予想してたんだけどな、それでも体中から力が抜けて行ったよ」
「7割方中止だと思いながら、良くモチベーションが保てたな」