失われたあの夏
「今年、静岡代表は〇〇高だってな」
「ああ、俺らの頃とはだいぶ勢力地図が変わったな」
「あの頃はまだ公立にも充分チャンスはあったけど、すっかり私立勢に持って行かれるようになったもんな」
午後8時過ぎの居酒屋、話題になっているのは夏の甲子園。
俺の目の前で焼き鳥を齧っているのは石井正樹、高校時代の同期で一緒に甲子園を目指して汗を流した仲だ。
二人とも東京の大学に進んでそのまま東京の会社に就職したので、今でもちょくちょく会って話す、今日も俺から誘って居酒屋で夕飯がてら一杯やっているところだ。
俺たちが高校球児だったのは10年前に遡る。
正樹は技巧派のピッチャーで、打っても3番を任されていた。
俺は宮田慎司、1番・ショートが定位置だった。
ウチの高校に甲子園出場経験はない、例年なら県大会1~3回戦の間に姿を消すノーマークの学校だ、しかし俺たちの代には県内でも有数のピッチャーと評価が高かった正樹がいた、俺たちは本気で甲子園を目指していた。
だが、そこそこの進学高でもあったから高3まで部活を続ける奴は珍しかった、実際、高2の夏まで同期は7人いたのだが、予選準々決勝での敗退が決まると4人が辞めて行った。
当時の正樹はと言えば、球速はそれほどでもないがコントロールに優れていて、スリークォーターからのスライダーは大きく曲がり、小さくタイミングを外すチェンジアップ、一度浮き上がるように見えてから大きく曲がり落ちるカーブを交えた投球は強豪校の打線も抑え込むことが出来た。
俺はと言えば、強打者だったとは言えないが脚には自信があった。
左打席からの叩きつけるバッティングで内野安打を稼ぎ、相手内野陣が前進守備を取って来ればミート打法で間を抜く、守っても守備範囲の広さはちょっと自慢だった。
そして3人目はこの場にはいないが、4番・キャッチャーだった吉田敦。
4番としては長打力が物足りなかったが、相手の配球を読むことに長けた勝負強いバッターだった。
配球を読めると言うことはピッチャーのリードにも長けていると言うことでもある、技巧派の正樹の女房役にはうってつけのキャッチャーだった。
2年生の夏、県大会の準決勝まで駒を進められたのは、正樹・敦のバッテリーが相手打線を封じ込め、俺が塁に出て掻き回して接戦を勝ち抜くパターンが確立していたからだ。
2年で辞めて行った4人も手ごたえを感じていたから続けたい気持ちは強かったのだろうが、『そこそこの進学高』って言うのが問題だった。
同じ公立でも甲子園の常連だった静〇高は県内で一、二を争う進学高、地頭の良い生徒が揃っているから、甲子園大会終了後からでも本腰を入れればかなりのレベルの大学に進んで行ったし、仮に一浪することになっても気が緩んだりして成績を落とすような奴はまずいない。
だが、ウチ辺りの高校に来るのは『まじめに勉強すればいい成績を取れる』レベルの生徒、大学受験に備えるにもそれなりに時間が要る。
野球で有名な高校でもないから、大抵の奴は高2で引退するつもりで野球部に入って来る、最初からそう言うスケジュールを立てて入学し、部活を始めるのだ、『辞めるなよ』と無理に引き留めるわけにも行かない。
俺はと言えば、高2の予選が終わった後、『一浪することになるかも知れないが、もう1年野球を続けさせて欲しい』と頭を下げて認めてもらった。
一浪後には高2の時点で狙っていた大学よりワンランク上の大学に手が届いたから結果オーライではあった、何しろ無理に認めてもらった浪人だったから、勉強の手を抜くわけには行かなかったのだ。
正樹も似たようなものだ、俺と同じようなレベルの大学を志望していて、結果的には一浪して高2で見定めていた志望校に合格した。
敦はちょっと違っていた。
おそらく地頭は3人の中で一番良かったのだが、親父さんが軽い身体障害を抱えていてお袋さんも病気がちだったので、高校時代から地元の国立大から県庁職員になると決めていた、県庁ならば地元国立大出身が多く学閥も存在する、奴は問題なく現役で志望校に進み、予定通りに県庁に勤めている。
そしてもう1人、高3まで野球部に所属していた生徒がいた。
佐藤静香、マネージャーだった。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
10年前……。
その日、監督は練習に少し遅れてやって来て、傾き始めた太陽を背にして部員を集めた。
「残念だが……今年の甲子園は中止と決まった、予選も行われない……」
いかにも言い難そうに話した監督の様子は今でもよく覚えている、監督自身も無念そうだった、手ごたえを感じていたのだろうと思う。
その年の初頭から世界的パンデミックを引き起こしていたウィルス、その感染拡大防止のために、それまでも様々なイベントが中止になっていたから(もしかしたら甲子園も……)と言う予感はあった、しかし、決定が出ない限り、大会は開かれると信じて練習に励まなければならない。
しかも大半の生徒が受験勉強に向かっている中で、毎日グラウンドに出ていたのだ、大会が開かれないなどと言うことは頭の中から追い出そうとしていたのだが……。
俺たち3人は呆然と立ち尽くした。
(それなりの犠牲も払う覚悟で続けて来たのに、そんなのってあるかよ……)
そんな気持ちで涙も出なかった。
2年生たちは泣いていた、その年は県大会でも3番手と評されていたから甲子園も夢ではない、高いモチベーションを持って練習に励んで来たのだ。
そして、誰よりも激しく泣いていたのが静香だった。
俺たち3人の気持ちを良く知ってくれていただけに、いたたまれない思いが強かったのだろう。
こうして、俺たちにとっての高校最後の夏は唐突に終わった。
それが始まる前に……。
中止のショックからか、2年生の中で残る者は一人もいなかった。
そもそも高2で引退が当たり前の学校なのだ、来年も開かれるかどうかわからない大会に向けて練習に励むモチベーションなど持ち続けられるはずもない。
野球部はかろうじて1年生9人が残るだけとなり、以後、野球に関してウチが話題に上ることもなくなった。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「あれからもう10年経つんだなぁ」
「ああ、でも、今でも静岡予選が気になってさ、新聞を開くと真っ先に地方大会の結果を見るよ」
「俺もさ、ウチは2回戦止まりだったな」
「ああ、まあ、接戦だったけどな」
「懐かしいな……敦と静香はどうしてるかな」
「そう言えばこのところ連絡取ってないな」
静香が進学したのは県内私大の看護学科、卒業後は看護婦になっている……看護士と呼ぶべきだって? いや、静香自身が自分を看護婦と呼んでいるんだから問題はないだろう? それに俺もその呼び方の方が暖かい感じがして好きだ、静香は特別美少女だったというわけじゃないが、気立ての良い、優しくて暖かい娘だったし……。
そして、敦の大学と同じ駅にあったこともあるのだろう、二人は大学に進んでからも交流を持ち続け、それはいつしか交際に変わり、3年前に夫婦となっていた。
「ああ、俺らの頃とはだいぶ勢力地図が変わったな」
「あの頃はまだ公立にも充分チャンスはあったけど、すっかり私立勢に持って行かれるようになったもんな」
午後8時過ぎの居酒屋、話題になっているのは夏の甲子園。
俺の目の前で焼き鳥を齧っているのは石井正樹、高校時代の同期で一緒に甲子園を目指して汗を流した仲だ。
二人とも東京の大学に進んでそのまま東京の会社に就職したので、今でもちょくちょく会って話す、今日も俺から誘って居酒屋で夕飯がてら一杯やっているところだ。
俺たちが高校球児だったのは10年前に遡る。
正樹は技巧派のピッチャーで、打っても3番を任されていた。
俺は宮田慎司、1番・ショートが定位置だった。
ウチの高校に甲子園出場経験はない、例年なら県大会1~3回戦の間に姿を消すノーマークの学校だ、しかし俺たちの代には県内でも有数のピッチャーと評価が高かった正樹がいた、俺たちは本気で甲子園を目指していた。
だが、そこそこの進学高でもあったから高3まで部活を続ける奴は珍しかった、実際、高2の夏まで同期は7人いたのだが、予選準々決勝での敗退が決まると4人が辞めて行った。
当時の正樹はと言えば、球速はそれほどでもないがコントロールに優れていて、スリークォーターからのスライダーは大きく曲がり、小さくタイミングを外すチェンジアップ、一度浮き上がるように見えてから大きく曲がり落ちるカーブを交えた投球は強豪校の打線も抑え込むことが出来た。
俺はと言えば、強打者だったとは言えないが脚には自信があった。
左打席からの叩きつけるバッティングで内野安打を稼ぎ、相手内野陣が前進守備を取って来ればミート打法で間を抜く、守っても守備範囲の広さはちょっと自慢だった。
そして3人目はこの場にはいないが、4番・キャッチャーだった吉田敦。
4番としては長打力が物足りなかったが、相手の配球を読むことに長けた勝負強いバッターだった。
配球を読めると言うことはピッチャーのリードにも長けていると言うことでもある、技巧派の正樹の女房役にはうってつけのキャッチャーだった。
2年生の夏、県大会の準決勝まで駒を進められたのは、正樹・敦のバッテリーが相手打線を封じ込め、俺が塁に出て掻き回して接戦を勝ち抜くパターンが確立していたからだ。
2年で辞めて行った4人も手ごたえを感じていたから続けたい気持ちは強かったのだろうが、『そこそこの進学高』って言うのが問題だった。
同じ公立でも甲子園の常連だった静〇高は県内で一、二を争う進学高、地頭の良い生徒が揃っているから、甲子園大会終了後からでも本腰を入れればかなりのレベルの大学に進んで行ったし、仮に一浪することになっても気が緩んだりして成績を落とすような奴はまずいない。
だが、ウチ辺りの高校に来るのは『まじめに勉強すればいい成績を取れる』レベルの生徒、大学受験に備えるにもそれなりに時間が要る。
野球で有名な高校でもないから、大抵の奴は高2で引退するつもりで野球部に入って来る、最初からそう言うスケジュールを立てて入学し、部活を始めるのだ、『辞めるなよ』と無理に引き留めるわけにも行かない。
俺はと言えば、高2の予選が終わった後、『一浪することになるかも知れないが、もう1年野球を続けさせて欲しい』と頭を下げて認めてもらった。
一浪後には高2の時点で狙っていた大学よりワンランク上の大学に手が届いたから結果オーライではあった、何しろ無理に認めてもらった浪人だったから、勉強の手を抜くわけには行かなかったのだ。
正樹も似たようなものだ、俺と同じようなレベルの大学を志望していて、結果的には一浪して高2で見定めていた志望校に合格した。
敦はちょっと違っていた。
おそらく地頭は3人の中で一番良かったのだが、親父さんが軽い身体障害を抱えていてお袋さんも病気がちだったので、高校時代から地元の国立大から県庁職員になると決めていた、県庁ならば地元国立大出身が多く学閥も存在する、奴は問題なく現役で志望校に進み、予定通りに県庁に勤めている。
そしてもう1人、高3まで野球部に所属していた生徒がいた。
佐藤静香、マネージャーだった。
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10年前……。
その日、監督は練習に少し遅れてやって来て、傾き始めた太陽を背にして部員を集めた。
「残念だが……今年の甲子園は中止と決まった、予選も行われない……」
いかにも言い難そうに話した監督の様子は今でもよく覚えている、監督自身も無念そうだった、手ごたえを感じていたのだろうと思う。
その年の初頭から世界的パンデミックを引き起こしていたウィルス、その感染拡大防止のために、それまでも様々なイベントが中止になっていたから(もしかしたら甲子園も……)と言う予感はあった、しかし、決定が出ない限り、大会は開かれると信じて練習に励まなければならない。
しかも大半の生徒が受験勉強に向かっている中で、毎日グラウンドに出ていたのだ、大会が開かれないなどと言うことは頭の中から追い出そうとしていたのだが……。
俺たち3人は呆然と立ち尽くした。
(それなりの犠牲も払う覚悟で続けて来たのに、そんなのってあるかよ……)
そんな気持ちで涙も出なかった。
2年生たちは泣いていた、その年は県大会でも3番手と評されていたから甲子園も夢ではない、高いモチベーションを持って練習に励んで来たのだ。
そして、誰よりも激しく泣いていたのが静香だった。
俺たち3人の気持ちを良く知ってくれていただけに、いたたまれない思いが強かったのだろう。
こうして、俺たちにとっての高校最後の夏は唐突に終わった。
それが始まる前に……。
中止のショックからか、2年生の中で残る者は一人もいなかった。
そもそも高2で引退が当たり前の学校なのだ、来年も開かれるかどうかわからない大会に向けて練習に励むモチベーションなど持ち続けられるはずもない。
野球部はかろうじて1年生9人が残るだけとなり、以後、野球に関してウチが話題に上ることもなくなった。
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「あれからもう10年経つんだなぁ」
「ああ、でも、今でも静岡予選が気になってさ、新聞を開くと真っ先に地方大会の結果を見るよ」
「俺もさ、ウチは2回戦止まりだったな」
「ああ、まあ、接戦だったけどな」
「懐かしいな……敦と静香はどうしてるかな」
「そう言えばこのところ連絡取ってないな」
静香が進学したのは県内私大の看護学科、卒業後は看護婦になっている……看護士と呼ぶべきだって? いや、静香自身が自分を看護婦と呼んでいるんだから問題はないだろう? それに俺もその呼び方の方が暖かい感じがして好きだ、静香は特別美少女だったというわけじゃないが、気立ての良い、優しくて暖かい娘だったし……。
そして、敦の大学と同じ駅にあったこともあるのだろう、二人は大学に進んでからも交流を持ち続け、それはいつしか交際に変わり、3年前に夫婦となっていた。