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短編集91(過去作品)

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「千早さんとあまり変わらないかも? そろそろ三十歳くらいじゃなかったかしら」
 シルエットで真っ黒になった顔に浮かんだ二つの眼、その目が助けを求める目に見えてくる。顔はハッキリしない。三十歳くらいなのか、小学生なのか分からない。そこまでしか想像できないのだ。
「気弱なところが嫌いになったのかな?」
「とにかく、それからの彼は病的に疲れたようになっちゃって、結局入院生活を余儀なくされたんです。かなり精神的に衰弱してましたね。本当はもう少しお付き合いしたかったんだけど、私がそばにいない方がいいって感じたんですよ」
 その話を聞いてからというもの、千早も身体から力が抜けてくるように思えた。余計な力が抜けてくるのならいいのだが、そうではなく、全身が痺れたようになってくるのだった。別に心配ごとがあるわけではないのに、追い詰められてくるような錯覚に陥っているとでもいうべきか、その日を境に疲れが取れなくなってしまっていた。
 いつもまわりから見下ろされていた転校生の姿が瞼の裏から離れない。臆病な姿で、子供の頃は、
――情けないやつだ――
 とまで思っていたことは否定できないが、情けないと思いながらも、なぜか気になっていた。
――他人事のように思えなかったからだろうか――
 今から思えばそんな感じもしてくる。
 会社で仕事をしていても、仕事が手につかなくなってきた。依頼された仕事を満足にこなせなくなり、そのうちに自分の業務すら手につかなくなってきた。
 年齢的にも第一線では中間クラスの立場である。一つのことを完成させるには、必ず自分のところを通るというような立場であるため、仕事に集中できないということは自覚するよりもまわりの方が敏感に察知していたようだ。
「千早さん、どうかしたんですか? どうも仕事が捗っていないようですけど」
 最初は部下から指摘された。仕事の場や公の場での指摘はさすがに立場上まずいと思ったのか、呑みに誘ってくれて話を聞いたのである。
 さすがにその時はまだ自覚のない頃だったので、
「そうか、すまないな、これからはしっかりするよ」
 と言って、
「お願いしますよ」
 という会話だけで済んだのだが、相手の怪訝そうな顔が気になった。
「しっかりするよ」
 という言葉自体、自分の中で中途半端な気持ちで答えていることが分かったので怪訝になられるのも分かっていた。しかし、気持ちの上では、
――しっかりしているのに、失礼な――
 としか思っていなかったので、それも仕方のなかったことかも知れない。しかし、それから彼には感謝することになる。一番最初に気がついて、勇気を持って指摘してくれたのだから。
 それが、電車の中で、
――あるはずのものがない――
 と感じた時だった。車窓から眺めていた漠然と見える景色、いつもはあって当たり前、ないから気になるのだが、それが何かハッキリしない。こういう経験は千早だけではないかも知れないが、人一倍気になるのは、その時に小学生時代の転校生の助けを求めるような視線を思い出したからだ。
――電車をじっと見ている視線――
 それがなくなったのだ。だが、電車の表から見ている人の視線は猛スピードで走り去る車内にいる人、その姿が見えたわけであるまい。
 見えたとしても、それは表情まで見えるわけではないはずだ。それを見られていたと思い込んでしまうことで、自分の中に殻を作ってしまう。余計な疲れを自分で溜め込んでしまい、それが仕事に影響しているに違いない。
 子供の頃から視線には敏感だった。赤いポストを意識した時、そして転校生の助けを求めるような視線、どちらも、追いかけられている気分にさせられる。転校生の視線にしても、情けないと思いながら、助けてやることができないのは、視線を浴びてかなしばりに遭っていたからかも知れない。本当に情けないのは、千早自信ではなかっただろうか。
 自分の中に情けなさを感じると、なかなか仕事でも自信が持てなくなる。
 それを感じたのは、自分が疲れを感じ始めたのが、視線を感じなくなった日からではなく視線を感じ始めた日かららしい。きっと漠然と見ていながらでも、怯えていたに違いない。
 その視線に果たして小学生時代の転校生を感じていたのだろうか。男の視線を感じなくなってから、ずっとそうだと思っていた。自分の中でわだかまっているものを特定できれば、いくら怯えているとはいえ、幾分かマシではないかと思えるのだが、一向に疲れは癒されないし、それどころか、前にもまして疲れが溜まっていくようだ。
――病気なのかな――
 優衣の元彼氏が病的になってしまい、入院した話を思い出した。人を近づけない雰囲気にしてしまうほどのやつれ方だと話していたが、果たして千早自身はどうなのだろう?
 そういえばそれまで仕事のことでいろいろ相談に来た部下が寄り付かなくなっていた。仕事なのだから、いくら取っ付きにくいとはいえ、連絡、報告くらいはあっていいものだが、皆が避けるようになっているのだ。
 気になって鏡を見てみた。気がつけば鏡を見るなど久しぶりであった。無意識に鏡を見ることを怖がっていたに違いない。
――いつから見ていないんだろう――
 少なくとも電車の中から見えていた人の視線を感じなくなってからは、鏡を見たという記憶がない。
 思い切って鏡を見てみた。
「何だ、別に何でもないじゃないか」
 声に出して鏡の中の自分に語りかけている。鏡に写っている自分は、記憶にある自分そのままだった。ただ少し疲れからか、顔色が黄色掛かって見えたが、それだけだった。
 黄色といえば、鬱状態になった時に見える色、ということは、千早は今鬱状態に悩まされているのだろう。
――今までに鬱状態になったことを意識しなかったなんてなかったことだ――
 と感じた。鬱状態に陥れば必ず意識していた。陥る前兆から、抜けてしまうまでの意識は、漠然としたものであるはずはなかった。
 気がつけば、病院のベッドにいた。疲れからなのか、体調を崩し、倒れてしまったようだ。
 疲れを感じ始めてから一ヶ月くらい経ってからの入院だった。ちょうどあるものが見えなくなって、何かに怯えているという予感がしてきてからのことだった。
 病院で寝ていても、電車の中の風景だけが頭をよぎる。
「精神的な疲れが一番大きいですね。しばらく静養しないといけませんね」
 と言われて、会社には休暇願いを出した。本当はあまり入院もしていられないが、それでも下手に会社に出てまた倒れられても困ると言われれば、入院するしかなかった。
 病院といっても静養所のようなところで、新鮮な空気を吸えるところであった。別に自由に起きてもよかったが、千早はあまり起きて出歩くことをしなかった。
 以前はじっとしていることが苦痛だったが、今では落ち着いている時間がありがたい。
――どうしてもっと早くに気付かなかったのだろう――
 と思うくらいで、この分だと退院も早いかも知れないと感じるほどだった。
 遠くで電車の汽笛が響いている。
作品名:短編集91(過去作品) 作家名:森本晃次