短編集91(過去作品)
と感じた時に、目の前の色が少しずつ変わってくる。
しかも、昼間と夜とでは感じ方が違う。昼間であればハッキリと見えていたものが、黄色掛かって見えてくる。まるで夕凪の時間のように、黄砂が舞い降りたかのようにも見えるのだ。
しかし、夜になると少し様相が違う。暗い中に見えるネオンサイン、いつもより鮮やかに見えているのだ。
いつもは疲れていている時に、鮮やかに見えていた。その鮮やかさと一緒である。
――ということは鬱状態というのは、どこかが疲れているからなんだ――
と感じるようになった。
疲れはいずれ癒されるものだ。そのきっかけが必要なのだろうが、鬱状態から元に戻る時というのは、いつも期間が一定している。大体二週間程度くらいのもので、傷が癒されるような感覚に近いのかも知れない。
誰かに見られている感覚も、同じくらいだ。二週間は誰かに見られている感覚が抜けないのだが、急に見られているという感覚が消えてしまう。鬱状態から抜ける時とは若干感覚が違うのだが、何となく拍子抜けしたような感覚である。
――二週間というのは、どこから来るのだろう――
と鬱状態を感じていたわけではなかったので、分からなかった。そもそも鬱状態の二週間というのもどこから来るのか分からない。きっと身体の中の何かの周期が二週間なのだろう。
皆が皆、周期を持っているというわけではないかも知れない。持っていても個人差もあるだろう。しかし、バイオリズムが皆にあるということは分かっている。とすれば、周期に個人差があるだけに違いない。
二週間というのをいろいろ思い起こしていた。
小学生の頃に、転校生が一人いたが、彼は最初誰とも馴染めなかった。
転校生が珍しく、しかも他の土地を知らない皆は、その子のまわりに群がっていろいろ聞いていた。
小学生だけに、皆自分の言いたいことを勝手に聞いているので、見ているだけでも輪の中心にいる彼がかわいそうになってくる。
彼の目は虚ろで焦点が合っていない。元々あまり自己主張の強そうな雰囲気のある少年ではなかったので、誰を見つめていいか分からないようで困っていた。
そんな彼を千早はじっと見ていた。
すると、彼もそれを分かったのか、千早の方を見返した。その顔は助けを求める表情が顔全体に溢れていた。少々遠くても汗の玉が見えるようで、困惑の表情に一筋の光を見出しているように見えたのだ。
その視線の先にいるのが千早である。その表情がしばらく千早には忘れられなかった。
だが、彼の視線を感じたのはその時だけだった。
彼は思ったよりこの学校にいるのは短かった。数ヶ月で他の学校に転校していったが、その時の顔だけは、しばらく忘れられなかった。
しばらくしてその顔も忘れかけてきた時、誰かに見られているような気がし始めたのだった。
転校生に感じた視線を思い出した。あの視線は完全に助けを求めていた視線である。皆からいろいろ聞かれてきっと煩わしかったに違いない。
しかしあの時の千早は違っていた。あまり目立たない性格で、まわりからは相手にされない。そばにいても誰も気にしないようなそんな存在だったのだ。
表情や顔色をあまり変えることのない千早は、まわりからちやほやされている転校生を見て羨ましいくらいだった。だから助けを求めるような表情をされても、羨ましいという目で見ているので、助けるどころか、転校生には冷たい表情としてしか写らなかっただろう。
転校生は、自分から話しかけたりする方ではなく、性格的には千早と似たタイプだったはずだ。それを分かっていただけに、
――なんで彼だけがちやほやされるんだ――
のも無理もない。
だが、その気持ちを転校生は分かっていたかも知れない。似た者同士は、相手の気持ちが分かる時があるというではないか。千早が助けるどころか、却って羨ましがって嫉妬の思いを浮かべていると分かっての表情だったとすれば、千早の気持ちは複雑だ。
転校していって、もう会うこともないと思うと、
――もし、あれが自分の立場だったら、どうだろう――
と考えた。あの時の助けを求めるような表情を自分がしていたのだと考えれば、複雑な心境である。
切なくてやり切れない気持ち、
――あの時に助けていれば――
という後悔の念、それぞれに生まれて初めてやるせなさを感じた。
その思いは夢の中にも出てきた。うなされるところまではいかなかったが、その表情にビックリして目が覚め、しばらく放心状態が続いたが、落ち着いてくることで眠りに就いたが、また同じ夢を見てしまったくらいだ。
――ひょっとして目が覚めたと思ったのも、夢の中だったんじゃないだろうか――
と感じるほどである。
後にも先にも夢から覚めて、また同じ夢を見ることなどその時一度だけだった。
夢を見たその日から、しばらくまわりを光景が違って見えた。遠くのものが、さらに小さく見え、近くのものが大きく見える。しかし、距離感は感じないのだ。まるで絵を見ているかのように立体感があるわけでもなく、色を感じているにもかかわらず、すべてに黄色掛かったように見えている光景は、まさしく鬱状態である。
その時にはまだ鬱状態などということは分からずに、ただ、
――転校生に悪いことをした――
という思いだけが残っていた。そして、いつかは自分に振り戻されることに違いないと思うことで、余計に憂鬱な気分になってしまう。
小学生時代のちょっとしたことなのだが、成長するとともに、できてしまった溝を埋めることができなければ、それは傷口として広がるばかりだ。
それを隠そうとすればするほど、心の奥に封印されて表に出てきた時には、本人にも分からないわだかまりとなって、鬱状態を作り上げるのかも知れない。
理由を無意識ながらに分かっているので、鬱状態に入る時、そして鬱状態を抜ける時というのが、おぼろげながら分かるのだろう。
鬱状態に対しての特別な思い、これは千早だけのものに違いない。
「千早さんのお疲れの様子、仕事だけじゃないのかも知れませんね」
「というと?」
「悩みがある人は上の空で、目の焦点が合っていないように見えるんですよ。でも千早さんの場合、確かにあらぬところを見ているんですけど、なぜか見ている先の焦点が合っているような気がして仕方がないんです。何かが見えるんですか?」
と優衣から指摘された。
「どうして分かるんだい?」
「前の彼氏もそんな時があるんですよ。じっと見ていても彼が見ている先に何かあると思うんだけど、それが何か分からないんですよ」
「それが別れる原因だったの?」
「それもあるかも知れませんね。でも、彼が見ている先にいる人は、女性じゃないんですよ。男性なんです。そして彼の表情には助けを求めるような気弱な面が見えていたんですよね」
小学生時代の転校生を思い起こさせる。
「とにかく彼はいつも疲れていました。視線を見ていて遠くを見るのが分かってからというもの、やつれていくのが分かるんですよ。それも私の前でだけ。他の人と一緒にいる時は、まったく変わらなかったんですよ。不思議でしょう?」
「彼氏っていくつだったの?」
作品名:短編集91(過去作品) 作家名:森本晃次