短編集91(過去作品)
「まるで孫悟空がお釈迦様の手の平の上で遊ばれているって感じかしら? 私が背伸びしても、やっぱり彼にはかなわない。でも、その方がカップルらしいとも言えるかも知れませんね」
優衣は笑っている。彼女の笑顔にも感情が出ているのか、そのすべてが微妙に違っている。またそれが彼女の魅力でもあるのだ。
いつも何かを考えている千早は、ちょうどその頃、まだ見ぬ彼女を思い浮かべていた。付き合い方など相手が決まらなければ分からないのに、勝手に想像して楽しんでいた。勝手に想像する方が、今から思えば楽しかったかも知れない。
一度誰かと付き合って、別れてからまた誰かと付き合い始めることを想像すると、今度はかなり想像の幅が限定されてしまう。
――好きになる女性のパターンが決まってくるからだ――
最初に付き合った人が、自分のタイプだと思ってしまうことも往々にしてあるだろう。千早の場合はそうだった。初恋の人というよりも、最初に付き合った人がタイプなのだとずっと思ってきた。
最初に付き合った女性、それは、いつも静かな人だった。人と話しているところをあまり見たことがなく、どちらかというと、少し離れたところから見ているようなタイプの女性である。
一緒にいて疲れることもなかった。静かにしていても、いつも千早の後ろをついてくるような従順な女性、何かを話さないでも気持ちが通じ合えていたように感じられたからである。
「あなたと一緒にいるだけでいいの」
この言葉だけで十分だった。
半年ほどの付き合いだったが、後から思えばあっという間だったように思う。別れの原因はハッキリとしないが、
――失恋ってもっとショッキングなものじゃないのかな――
と思えるほどサバサバとした別れだった。普通、ショッキングでなければ中途半端な別れになってしまい、心の中に幾分かのわだかまりが残りそうに思うのだが、なぜかわだかまりのようなモヤモヤした気持ちも残らなかった。
――別れても、気持ちが通じ合っていそうだな――
と感じるほどで、決してどちらかが嫌いになったから別れたということでもない。しいて言えば自然消滅に近かっただろう。
――ひょっとして、一番傷つかずに別れられる時期をお互いに分かっていたのかな――
と思える。しかもこれが他の人とでは絶対にありえない別れ方であり、別れる時期だったのだ。まるで魔法にでも掛かったような半年間だった。
その反動からか、それから女性と知り合うこともなかった。あえて知り合いたいという思いもなかったのだろうが、最近は女性を見る目が新鮮に感じられるようになった。
優衣のように彼氏のいる女性と話す時も、彼氏との話題を聞いて嫌な気分にならないからだ。きっと今までなら平常心ではいられなかったかも知れない。彼女がほしいとは思わないまでも、のろけを聞かされるのはさすがに苦痛でしかないであろう、
最近は、ずっと心が穏やかだった。以前から疲れることをしないようにしようと心がけていたこともあって、さすがに最初は余計な神経を使ってしまって思ったよりきつかったが、ある程度慣れてくると、平常心を保つことができるようになってきた。それも自然にである。
何事も自然が大切だということが、悟りになったのだろう。仕事においても、「自然体」を意識するようにしていると、それほど疲れもなく、スムーズにできるようになってきた。
――一つのことに集中していると他のことがおろそかになる――
この性格だけは、ずっと今まで付きまとってきた千早にとって一番嫌なものだった。
――自分だけではないだろう――
という思いで幾分か気が楽になるが、いろいろ考えていると、いつも最初に考えが戻ってきてしまう。袋小路に入り込んでしまうのだ。
――開き直りなのかな――
最後は開き直れるかどうかではないかというのが、いつもの結論であった。
いつも何かを考えているからかも知れないが、何も考えないようにするというのは難しいことだ。それこそ自然にでなければ苦痛をともなう。何も考えないようにするということは、見えているものを見えないように目隠しをするようなもので、目隠しをした状態で道を歩くことの恐ろしさを感じてしまうからだった。
だが、実際にはそんなことはない。考えないようにするということは、一つのことだけを思っていればいいということで、「思う」と「考える」の違いである。考えてしまうとそこから考えは果てしなくなり。時間を感じることなく放射状にいろいろ考えてしまうことが疲れに繋がってしまうのだ。
最近疲れを感じる元凶が、「考える」ということにあることを知った。だが、考えることは悪いわけではない。余計なことを考えるから、疲れてしまうのだ。それも分かってきていた。
朝、喫茶店に寄るのも、余計な考えを起こさないようにしようという思いもあるからである。
――余裕が余計な考えを起こさせない――
それこそが疲れを残さない最大の理由なのだろう。
仕事に集中していると、疲れを忘れてしまう。だが、仕事を終えると一気に疲れが襲ってくるのは、千早だけに限ったことではない。しかし、仕事が終わると開放感からか、余計なことを考えてしまうのは、千早の悪いくせで、感じなかった疲れを感じることも、余計なことを考えさせてしまうことに繋がっていく。
だが、最近はそんなこともなくなってきていたのに、電車の中で感じた「あるべきものがない」という感覚、ずっと残ってしまいそうだ。
高校時代から、いつも誰かに見られているという意識を持っていた。少し自意識過剰な面もあっただろうが、一度気になり始めると、どうしても頭から離れなくなってしまう。
――自分に自信もなかった時期だからな――
自分に自信がないと、被害妄想に陥ることもある。他人からいつも間違いを指摘されたりしていると、いつも監視されているような気にもなってしまう。
監視されていると感じる時期はそれほど長くはなかったが、絶えず誰かに見られているという気持ちは残ってしまった。
特に子供の頃に追いかけられた思い出が頭の中でトラウマとして残っているため、まわりを見る時、住宅街がまず瞼に浮かんでくる。
昼間であっても薄暗がりに感じられ、そのくせ、影だけはくっきりと見えている。足元に放射線状に広がっているように思えて、さながら夜の住宅街そのままを感じさせる。
それも高校時代の一時期だけだが、きっとその時は受験ノイローゼだったに違いない。誰にも言えずに悩んでいた。こんなことを人に話しても誰も信じてくれるはずもないし、信じてくれたとしても、この苦しみから解放してくれるはずもなかったからだ。
――鬱状態ってこういうことなのかな――
ノイローゼを鬱状態だと思うようになっていた。
後になって気付いたのだが、鬱状態というのは、定期的にやってくるものだ。もし、一番最初に陥った鬱状態がいつかと聞かれれば、追いかけられる妄想に最初に駆られた時だと答えるだろう。
定期的に襲ってくる鬱状態、その時に感じる追いかけられているという感覚、切っても切り離すことのできないものになっていた。
鬱状態というのは、陥る時が分かるものである。
――鬱状態の入り口だ――
作品名:短編集91(過去作品) 作家名:森本晃次