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短編集91(過去作品)

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 定刻に滑り込んできた電車に乗り込んだ時は、何となく身体に違和感があった。前の日から体調が悪く、少し寒気がしていたが、朝になってから今度はお腹の調子がよくないのが分かった。脱水症状の一歩手前くらいだったが、ミネラルウォーターを飲んだので、少しよくなった。
 駅まで歩く間に体調がよくなったということも今までに何度かあった。動くのがいいのだろう。しかし、それでも違和感だけは残った。指先がカサカサになっているのはその影響である。
 駅まで歩く間に限らず、いつも何かを考えている。主には仕事のことがほとんどだが、その日もそうだった。気がつけば駅に着いているということも珍しくなく、いつも同じ光景が目の前にあることを無意識に感じているからなのだろう。
――ちょっと何かが違っていても分からないな――
 と気持ちに余裕のある時は考える。仕事が一段落した時や、翌日が休みの時などは、いつになく精神的に楽である。
 駅に着くまであっという間だった。まわりを歩く人の群れに乗せられるように歩いてきたので、自分で歩いているという感覚もなかった。人の波に乗るのが楽だということを今さらながらに思い知らされたようである。
 快速電車の停車駅は昔に比べればかなり増えた。確かに途中田舎を走っているので、以前の乗降客はあまりいない駅が多かったのだが、住宅街が増えたこともあって、途中の停車駅が少しずつ増えていき、今は三駅に一つは止まるようになっている。
 所要時間も少しずつ増えていったは、車窓から見える景色にさほど変化はない。住宅地ができたと言っても線路沿いではなく、駅を降りてバスで少し入ったところが主である。
 少し行くと連山になったところがあり、麓に住宅地が作られていったのだ。
 通勤途中にはまだ田園風景が残っている。考えごとを死ながら表を見ていると、田園風景を飛び越えるように走りながら向こうの山を眺めていることに気付く。その風景はいつも固まっていて、不変であることに何ら感じることもない。
 いつも眠い目をこすりながら電車に乗っている。
――電車の揺れというのがこれほど睡魔を誘うものだとは思ってもいなかった――
 毎日乗っている電車で、眠くなるのも珍しくはないが、そのことに気付いたのは、電車通勤を始めてしばらくしてからである。
 なるほど、早い時間の電車の中はあまり客もおらず、そのほとんどがうたた寝をしている人である。学生にしてもサラリーマンにしても、一人で何もすることなく乗っている人のほとんどは眠っているのではないかと思えるほどだ。
 実に気持ちよさそうに寝ている。軽く寝息を立てている人もいれば、叩き起こしてやりたくなるくらいにゴーゴーとイビキを掻いている人もいる。実に迷惑なのだが、逆にそこまで堂々とイビキを掻かれると、どうしようもない。
 もちろん、千早も眠ってしまいそうな衝動に駆られたことが何度もある。しかし、眠ってしまうには中途半端で、下手をすれば熟睡してしまい、そのまま乗り過ごしてしまわないかが不安であった。
 今は携帯電話などがあり、アラームをセットしていればいいのだろうが、車窓を眺めるようになって、寝なくても大丈夫なようになっていた。たとえ毎日同じ風景であっても、車窓を眺めていれば眠ってしまいそうでも眠らない。普通に考えれば却って眠ってしまいそうなのだが、千早自身不思議だった。
――確かにこれだけ眠いのに、どうして眠りきれないのだろう――
 漠然とした疑問ではあるが、ずっと考え続けていることでもあった。
 電車の中では何も起こらない。それはすべてが漠然という言葉で片付けられているからだ。
――漠然――
 この言葉ほど曖昧なものもないのではないか。言葉としては一番適切であって、アバウトでもある。適当という言葉にも匹敵する。適切という意味もある反面、アバウトという意味にも取られがちだ。実に都合のいい使われ方をしている。
 器用貧乏という言葉があるが、曖昧に使われているだけに、どうしても希薄な感じを受けかねない。それだけに、大切なことを忘れかけてしまったり、気にしなければならないことが分からなかったりすることを意識しておく必要もあるだろう。
 いつも何かを考えている千早にとって、漠然ということは切っても切り離せない。違うことを考えているようでも、行き着く先はいつも同じところのように思える。所詮考えるにしても、自分が経験したことから派生させてのことなので、それほど経験が深いわけではない千早の想像力も、必ずどこかで元に戻ってくるはずだ。
 それでも行き着く先が見えてこない。気がつけば元の考えにいるだけで、自分の発想の限界が見えてこないのは、そこに何らかの力が働いているように思える。
 何かを考えていて、我に返ると、さっきまで考えていたことをハッキリと思い出せないことが多い。
――いつも同じことを考えているようだ――
 という思いしか残っていないが、それも漠然としてである。
 まるで夢から覚めた時の感覚に似ている。
――行き着く先を見せたくないのは、自分の潜在意識がそうさせているのではないだろうか――
 いつも同じ景色の車窓を眺めていると、ある一定の景色に差し掛かると、急に何かを思い出すことがある。それは一瞬のことなのは、電車が動いているからだが、その景色を見た時に考えていたことを、ふっと思い出すのだろう。ということは、いつも漠然と考えていることは、一定していることもあることを示している。毎回同じとは限らないが、車窓を眺めながらまったく変わらないはずの景色の中に考えごとをしていた内容と一緒に、頭の中が覚えているに違いない。
――気になっていないようで、車窓から見える景色のことを気にしているようだ――
 その日も漠然と見ているようだったが、
――どこかが変だ――
 と感じていた。ハッキリとした確信はないのだが、いつもと感覚も、見えているはずの変わらぬ風景のどこかに違いがあるのは間違いなさそうである。
 電車のスピードは田舎を走るほど上がっているように思う。同じような光景が走り抜けるのを見ているからそう感じるのだろう。特にスピードが出ていると、遠くのものが近くに見えたり、小さなものがさらに小さく見えたりする。
 動いているものであっても、スローモーションに見えたり、まったく止まっているように見えるのも速度による錯覚である。
 止まっていて動いているものの中を見る時、その傾向が強い。車の中にいる人が動いていても止まって見えたり、コマ送りに見えたりしてしまうのだ。
 それだけに車窓から見える毎日の風景に、少しくらい違いがあったとしても気付かないだろう。気付いていたとしても漠然としていて、どこが違うか分からないと思うのも無理のないことだ。
 もっともそんなことをいちいち気にもしない。電車の中ではなるべく余計な気を遣いたくない。出張や旅行など、移動だけで疲れてしまうのも、乗り物を利用することで、想像以上に体力を消耗しているからだろう。揺れというものが身体に及ぼす影響は、思ったよりも大きいようだ。
作品名:短編集91(過去作品) 作家名:森本晃次