短編集91(過去作品)
そう感じた白石は、走っていることに怖さを感じた。真っ暗でライトをつけながら山道を走った経験は今までに何度もあるが、それとは違う寂しさである。中途半端な暗さが忍び寄ってくるのだ。
一日のうちに一番事故が起こりやすいと言われている時間、それは夕凪の時間帯だということを聞いたことがある。
――夕凪――
夕方になるとそれまで吹いていた風がバッタリと止んでしまう時間がある。夕日が沈む時間でもあり、一番人間が疲れを感じる時間帯なのかも知れない。
ずっと明るかった時間を過ごしてきて、日が沈むとともに、目も休息を欲するかのように、暗い時間帯へと順応していこうとする。そんな時間帯は目だけではなく精神的にも休息を欲していて、いつの間にか気が抜けてしまうということが往々にしてありそうだ。
夕凪という時間、それは魔物が出るとして昔から恐れられている時間帯らしい。事故が多いのはそういう非科学的な理由ではなく、医学的な見地からも言われていることだ。
「夕日が沈む時間の数分くらい、この時間帯というのは、人間の目にはモノクロに見えることがあるらしい」
というのを聞いた。
色がハッキリと見えるためには、ある程度の明るさが必要である。これは誰もが分かっていることであるが、太陽が最後の力を振り絞り西日の明るさを示した後に沈んでいくのだから、急激に明かりが失せてくる。西日は地面に対して鋭角に差し込んきて、黄色やオレンジ色を強く視覚に残しているのだ。そんな中、黒で覆われる闇に近づいてくるのだから、余計に明るさに関してのギャップを感じるものだ。当然、モノクロに見える時間も出てくるというもので、視力がよくとも、その時間帯だけは、誰もがモノクロに見えてしまっても仕方のないことだろう。
だが、それを意識することはない。事故を起こしても、
「どうして事故が起きたのだろう?」
と、当の運転手が一番不思議に思っているに違いない。
そんな時間帯を思い出していたが、まだ時間はそこまでになっていないはずだ。だが時計を見ると、それでも午後四時前になっていた。自分の感覚ではまだ午後三時くらいのつもりでいたのに、一体どこで時間の感覚が麻痺してしまったのだろう。
――きっと峠の茶屋での時間だな――
今から考えると、鍬焼きが出てくるまでの間に下界を眺めていた時、あの時に綺麗に見えていた下界が急に霧に覆われ、いつの間にか今度はまた絶景に変わっていた。
――山の天気は変わりやすい――
と思ってあまり気にもしていなかったが、今から考えると、それほどすぐに天気が変わるというのもおかしい。きっと峠の茶屋から下界を見下ろしている時間だけは、何を感じても美しい下界の風景に惑わされてしまうのかも知れない。あの場所には、そういう魔力があったと考えると、時間の感覚が麻痺したこともそれなりに納得がいくというものである。
明るさもであるが、遠近感が取れないのは、運転に一番影響を来たすようだ。特に変化のない道を走り続けるということに疲れを感じる。
――やはり、どこか宿を探さないときついな――
と考えるようになった。
フォグランプだけでは、視界がほとんどなくなってしまった。ヘッドライトの明かりでないと、中央線すら見えない。薄暗さは闇へと変わり、静けさの中でエンジンの音だけが低く響いている。
すれ違う車もなく、自分がどこを走っているか分からない。暗闇の中でヘッドライトが示しているところしか見えない。しかも、見えているとしても、白い霧が立ち込めているだけだ。
そんな状態がどれくらい続いたのだろうかかなり下界まで降りてきたことは分かっている。蛇行する道もなくなり、平地を走っている感覚が戻ってきたからだ。最初は、視界がなかったことで、まるでトンネルの中のように、平衡感覚がとれずに、下っている感覚が麻痺しそうだった。
さっきの鍾乳洞も同じではなかったか。前を見ても後ろを見ても真っ白い鍾乳石に包まれたトンネル、急な坂になっていても、そこまで感じていなかった。その証拠に出口があれほど高い山の上になっているなど、想像もしていなかったからだ。
――阿蘇を走った時もこんな感じだったな――
日本有数のカルデラ大地を誇る阿蘇、少しでも天気が悪いと、すぐに霧に覆われてしまう。視界がほとんどなくなり、
――よくこんな状態で、皆車を走らせているな――
と思えるほどだった。地元の人間なら大体の道の特徴を知っているのだろうが、よく観光客が分かるものだと感心させられる。
対向車がフォグランプをつけていなければ、一歩間違うと正面衝突の危険性をはらんでいる。そんな恐ろしい道だったのを覚えているが、この日に走った道も、阿蘇の道に負けず劣らずの危険な道だった。せめてもの救いは対向車がいないことだが、却って相手のフォグランプがないので、余計に神経を使う。何よりも孤独感が襲ってくることが一番怖かったと言えなくもない。
そう考えながら車を走らせていると、思いがどこかで通じたのか、霧が少しずつ晴れてきた。ヘッドライトに照らされて、かなり先に見えている緑が、視界の中で狭くなっていく道の両側から迫ってくるのをクッキリと見ることができる。
どうやら、どこかの村の集落のようで、明かりが点々と見えてきた。少し走ると小高い丘になっているようで、途中わき道が出ているようで、そちらに向う看板標識が出ているのを見つけた。
「陶酔峡」と書かれた看板の横に、旅館という文字を発見した。普段ならあまり目立つ看板ではないのかも知れないが、その日は真っ暗でしかもやっと霧が晴れたところだ。嫌でも気になってしまう。
――これも宿の人が考えてのことなのかな――
と勘ぐってしまうのは、どうやら看板が特殊な蛍光色に覆われているのを感じたからだ。看板は少し黄色く光るような仕掛けが施してあるようで、きっと霧がまだ残っている時でも見えるようにしてあるのかも知れない。
――ひょっとして霧がもう少し立ち込めている時は、もっと違う色になっているかも知れない――
とは考えすぎだろうか。
とにかく背に腹は変えられない。疲れを癒す意味で、標識に素直に従った。
「グルッ」
さっきあれほど食べたのに、またお腹が減ってくるのを感じた。時計を見るとまだ宵の口、腹が減ってくるような時間ではないはずだ。それだけここに来るまでに体力を使ったということだろうか。疲れがピークに達しているのは間違いない。最後の力を振り絞るつもりで、旅館を目指しアクセルを踏んだ。
宿に着くと、
「ごめんください」
と言うや否や、待ち構えていたかのように宿の人たちが迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お疲れでしょう」
皆一斉に正座から頭を下げての出迎えだったが、一番最初に頭を上げ、答えてくれたのが女将さんなのだろう。まだ若く、若女将といってもいいくらいだが、さすがに落ち着きを感じるのは、女将としての自覚を醸し出しているからだ。器量もかなりのもので、都会を洋服で歩いている姿を思い起こそうと考えてしまった。
作品名:短編集91(過去作品) 作家名:森本晃次