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短編集91(過去作品)

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 注文を受けお辞儀をすると、おやじは奥に戻っていった。戻っていく時は、摺り足ではあるが、草履を擦っている音が聞こえる。それだけ最初は表の景色に集中していたとしか考えられなかった。
 さっきまではあれだけ晴れていて、太陽の光の恩恵を十分に受けて鮮やかだった緑が、少しずつ白っぽく見えてきた。
――少し天気が怪しくなってきたな――
 女心と秋の空というではないか。特に山の天気は変わりやすい。霧が出てきたとしても不思議ではない。
――さっきの緑を目に焼き付けておいてよかったな――
 と感じていると、みるみるうちに霧が立ち込め、あっという間に緑色が真っ白に変わってしまっている。
――まるで飛行機に乗って雲の上に出てしまった時のようだ――
 下界の霧は厚みを増し、本当に雲の様相を呈してきた。ここまで厚い霧を白石は見たことがない。今までにもいろいろな山を走ってきたが、雲の上に出てしまったかのような世界は初めてだ。
 下界と山の上の間は深い霧で遮られているが、山の上にある霧は視界が困難なほどひどいものではない。下界がどうなっているか分からないが、きっと下界も霧で視界が遮られていると思えないのは、白石の直感であった。
「おまたせしました、当店の名物鍬焼きです」
 ジュージューと鉄板のごとく鍬の上で焼かれた山の幸が運ばれてきた。匂いが鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。
 しばし香ばしい香りと、ジュージューと鉄板の上で焼けている音を瞼の裏で楽しんでいたが、目を開けて下界を見ると、ビックリしてしまった。
 さっきまでの霧がまるで嘘のよう、綺麗に晴れ上がって、実に絶景である。まるで料理が運ばれてくるのを待っていたかのようで、嬉しくなってくる。
――霧に咽ぶ景色も、絶景な緑も、両方見れるんだからきっとついているんだろうな――
 と感じさせられるほどだった。
 山の幸をふんだんに使ったというだけ、さすがに香りもいいし、栄養価の高そうなものばかりであった。しかも鍬の上で焼いているというのが、何とも言えない。その鍬を使って耕された野菜を、今度はその上で調理するのだ、面白いものである。
 肉と野菜から出る水分が、焦げるのを妨げていてるのか、焦げ目が見当たらない。鍬というのはなかなか熱を逃がさないのか、いつまでも柔らかさが保たれていて、いいとこずくしのように見える。
 下界の美しい風景を眺めながら食事をしていると、緑の森に吸い込まれそうな錯覚に陥ってしまいそうだ。結構標高の高いところにある茶屋に違いないが、下の森を見ていると近くに感じたり遠くに見えたりと、完全に遠近感を失ってしまっていた。元々緑という色は遠近感を失わせやすい色だと思っていたが、まさしくその思いを実践しているようである。
 食事にあまり時間を掛ける方ではない白石だが、旅に出ると食事に時間を掛ける。それだけ食欲旺盛になるのだが、旅館の食事など、何杯もおかわりしたりするくらいだ。しかし、途中で立ち寄って摂る昼食に時間をかけることはあまりなかった。むしろ、時間がもったいないと思うからか、結構あっさりと切り上げることが多い。特に茶屋などではここのような名物のあるところは珍しいだろう。あっさりと食事をして、食欲を満たす目的だけが多かった。
 しかし、これだけの絶景、しかも名物の鍬焼きのおいしさは、いつものようにあっさりという気分にさせてくれない。
――じっくりと食事も絶景も味わいたい――
 という気持ちにさせてくれ、昼食の時間まで、
――旅の醍醐味――
 を感じさせてくれたのだ。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。お腹は確実に満たされていっていることを感じていた。下界の大パノラマを見ていると、またしても霧が立ち込めてきそうな予感を感じると、あっという間に霧が立ち込めてくる。
「おやじさん、ここでは珍しくないことなのかい?」
 と、お茶を入れにきてくれた店の人に尋ねた。店の人は窓の外を眺めながら、
「このあたりの天気は気まぐれでしてね。ずっと霧が掛かっていることもあって、絶景を見ることができずに食事を終えて帰っていかれるお客さんも多いんですよ。」
 じっくりと鍬焼きを堪能し、お茶で喉を潤した。お茶もなかなかおいしく、きっと鍬焼きで辛さの残った口の中に、甘さを感じさせるには絶品ではなかろうか。
「このお茶は、ここらの名物で、特に鍬焼きの後にはこれがいいということですじゃ」
 方言交じりの言葉に、
――これも旅行の醍醐味だ――
 とニコニコ笑っている店の人を見ていた。人情とまで言えるかどうか分からないが、笑っている顔には田舎臭さが出ていて、白石には嬉しかった。
 勘定を済ませ、車に乗り込むと、表は入ってきた時の明るさとほとんど変わらないくらいだった。
 小さなトンネルを出ると茶店の駐車場が見えたが、今度はまた小さなトンネルを潜って下界へと降りていくことになる。
――駐車場から見ていると、まるで左右対称に見えるようだな――
 来た道と、これから進む道が左右対称に見えるというのも面白いもので、片目を交互に瞑って見てみた。すると面白いことに、さっき走ってきた右側がやけに明るく感じ、これから進もうとする左側が暗く感じるのだ。
――おかしいな――
 両目で見る限りでは、そんな感覚はない。茶店に入ってきた時とほとんど変わらない明るさを保っていると思えるだけなのだ。
 白石は左右の目で、視力がかなり違う。左目は最高に見えているのに、右目はそれに比べれば数段落ちる。両目で見ている時には感じないのだが、時々遠近感がなくなることがあるが、視力のバランスの悪さが影響しているに違いない。今はまだ運転にはまったく影響ないので問題ないが、いずれ気にしなければいけない時がやってくるに違いない。
 緑の中で車を走らせていると、時間の感覚を忘れてしまう。
 同じような風景がずっと続いていくだけで、双璧になっている緑色を通り抜けるだけである。空には真っ青な空、時々点在している雲も、まったく動いている気配を感じない。
――きっと自分では気付かないうちに疲れが溜まってくるのだろう――
 運転していていつも感じることだ。
 しかし、その日は特にその思いが強かった。あたりが少しずつ暗くなりかかっているのを感じたからだ。
――雨でも来るのかな――
 と思いながら、先ほど峠の茶屋から見た下界の景色を思い出していた。今その中を走っているのだが、見たあたりのどの辺を走っているのだろう。想像もつかないが、きっと森の濃くなったところだという思いは強い。
 空の色が薄暗くなっているのを感じると、今度は立ち込めてくる霧を感じてきた。峠の茶屋から見たほどに、一気に立ち込めてきたわけではなく、森から湧き出してくるような白さはゆっくりと、道にはみ出してきた。
――やっぱり山の天気は変わりやすいんだ――
 今回の旅で宿は予約していない。最終目的地の鳥取砂丘までは気ままな旅である。今日中に山脈を抜けて、米子まで行きたかったのだが、精神的にも体力的にも難しくなっていることに、その時気付いた。
――緑の中で暗くなっていく雰囲気が、これほどの寂しさを誘うとは思ってもみなかった――
作品名:短編集91(過去作品) 作家名:森本晃次