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短編集91(過去作品)

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砂丘



                砂丘


 都会の雑踏を離れ、田舎の空気を吸いたいと思うのは白石だけではないだろう。緑鮮やかな山間の道を走っていると、時間を感じることもなくなってくる。東京という都会はとかく人が多く世知辛い、雲を見ただけで空気の悪さを想像することができる。
 東日本よりも西日本が好きな白石は、まず遠くの方から攻めていった。九州には何度上陸したことか、フェリーで宮崎まで行き、南九州の温泉地を回ったものだ。ちょっと足を伸ばせば阿蘇や別府にも行け、休暇期間をフルに活用してなるべく多く回ったものだ。
――よくあれだけ回れたものだ――
 きっと後になって自分に感心することだろう。
 海を渡ればこれほど違うものか、九州の門司と、本州の下関、一キロほどしか離れていないところであっても、かなり文化の違いを感じる。手を伸ばせば届きそうなところなのに、船か橋を使わないと渡れないという感覚は、一体どんなものなのだろう? 旅行が好きになる前の白石には、目の前に見えているのに、海が邪魔をして渡れないという感覚が分からないでいた。
 九州から中国地方へと行動範囲を狭めてきたが、山陽地方にかなり造詣が深くなった。特に岡山から広島に掛けては、白石のもっとも気に入っている地域でもある。岡山、瀬戸大橋、倉敷あたりから、尾道、三原を経由して、瀬戸内の島々までもが、興味の対象である。
 尾道のように、目前には海を、すぐ後ろからは山が迫ってきているようなところには、不思議な感覚を与えられる。東京でも山に近い方に住んでいるので、あまり海には馴染みのない白石だからだろうか。関門大橋から見える向こう岸に感じた不思議な感覚にしても同じである。
 元々海は苦手だった。小さい頃から身体の弱かった白石は、小学生の頃など夏に海に連れて行ってもらうと、必ず次の日は熱を出して休んでいた苦い経験がある。海ばかりのせいとは言えないだろうが、暑い時の潮風は、身体にベットリと張り付いて気持ち悪いのは間違いのないことだ。白石の中にトラウマとなって残ることもいたし方なかった。
 尾道には何度行っただろう?
 文学と歴史の街として有名な尾道は、こじんまりとした街で、夏しか訪れたことがなかった。
「秋に訪れてみたいところはどこですか?」
 と聞かれて、京都の嵐山と同じくらいのイメージで尾道に行ってみたいと答えるに違いない。
 いつも旅行は最初の目的地と最終目的地を定めてから出かけることにしている。今回の旅行も類に漏れず、最初の目的地と最後の目的地を定めていた。
 最初の目的地は言わずと知れた尾道である。今までも何度か尾道を起点に回ったことがあったが、以前に行ったのは萩だった。維新の元勲や毛利氏の墓地など、萩という土地は尾道に負けず劣らずの魅力を持った街である。夏みかんジュースが有名なので、夏に訪れた時に飲むには最高だった。
 今回の旅行は同じ山陰地方でも、方向がまったく違う。小学生の頃に家族で訪れたことがあったが、小学生では理解できないところもあったのか、あまり記憶に残っていない。
 その場所というのは、鳥取砂丘である。どれだけ雄大であっても、興味がなければ見たものをすごいと感じる感覚は半減するというものであるが、まさしくその通りだった。
「うわっ、すごいね。大きいね」
 という家族の感動をよそに、同じように感動していても、フリでしかなかった。実際に感動していたわけではない。
 しかし、その時は感動していないつもりであっても、
「実際はどうだったか」
 と言われると、
「まんざらでもなかったような気がする」
 と答えるに違いない。だからこそ、その思いを確かめたくてもう一度行ってみたい衝動に駆られたのだ。
 ひょっとして萩に行こうと思った時よりも感動は少なかったが、新鮮だったかも知れない。
 大きいものほど感動は少なかった。あまり大きいと感覚が麻痺してしまうものではないだろうか。例えば観覧車、下から見ていて大きいと感じて乗ってみても、確かに上から見ると恐ろしいくらいに見えるが、歩いている人が豆粒ほどにしか見えず、そのせいで、高いというイメージはすっかりなくなってしまっている。怖さだけが残っているのだ。そういう意味で白石はあまり観覧車を好きではなかった。子供の頃から高所恐怖症だったことも、その思いに拍車を掛けたに違いない。
 尾道という土地が潮風や山の緑を連想させるところであるのに、鳥取砂丘は、ただ果てしなく続く砂山と、その上に広がっている空しかイメージが浮かんでこないのも対照的である。どちらも、自然の作り出した神秘なのだが、ここまで違うのを短期間で見るというのも旅の醍醐味である。
 元々旅行というのは、
――普段と違うところに行って、普段と違う自分を見つめることができるものだ――
 という究極の目的をはらんでいると思っている。もちろん、そこまでの思いに至るまでには、かなりの紆余曲折があった。現実逃避がしたくて出かけることが多くなったが、
――いろいろなところを目に焼き付けておきたい――
 という単純に、後から思い出して楽しい思いに浸れるという目的であっても、目的は同じところにあるのだろう。だからこそ、究極の目的だと思えるに違いない。
 本来なら中国自動車道を通っていくのがいいのかも知れないが、岡山に立ち寄ってみたかった。岡山城を見たことがなかったので見に行ったが、公園の中に聳える城というのはいつ見ても壮大でいいものだ。
 秋に旅行に出かけるのは珍しくはないが、尾道を起点とする旅行では初めてだった。今まで暑い時期が多かったこともあって、汗にまみれての観光だったが、今回は足が地に着いている感じがして、視界も良好である。
 緑が眩しく感じる。朝などは、露に濡れているように見えて、静かなところから落ちる雫の音が聞こえてくるくらいであった。いつも車を走らせている時には感じることのできないだけに、朝のひと時など自然を感じる時が至福の喜びである。
 前日は瀬戸大橋の見えるホテルに泊まった。鷲羽山の近くになるが、見晴らしは最高だった。海が近いわりに、小高い丘のようところにあるホテルなので、山の上にあるホテルを思わせる。それだけに朝など夜露に濡れた木々を見ることができるのだ。
――その日はきっと朝露が頭から離れないだろう――
 そんなことを感じながら車を走らせていた。中国自動車道を普通に走っていれば気付かなかったに違いない海の近くの朝露が綺麗な場所、それだけでも、遠回りをしてまで鷲羽山まで来た甲斐があったというものである。
 岡山市内は東京にはない雰囲気が随所に見られた。中途半端な都会というのがこれほどいいものだとは知らなかった。集落ができるところの近くには必ず川が流れているということを教えてくれるのが地方の都会である。東京もそうなのだが、なかなか感じることができないのは、大きな川が都心部から遠いからだろう。
「大きな川を渡ると、その向こうの景色は一変するよ」
 と小さい頃によく遊びに来ていたおじさんに教えてもらった。おじさんがどういう人かは知らなかったが、少し遠いところに住んでいる知り合いのおじさんだと母親から教えてもらった。
作品名:短編集91(過去作品) 作家名:森本晃次