猟奇単純犯罪
あれは、いつのことだったか。確か、あの奥さんがカレーを持ってきてくれてから少ししてのことだったと思う。僕は、あの奥さんのことが気になり始めたんだ。
浪人なんかしていると、女の子と知り合うこともないし、知り合えそうな女の子と言っても予備校の女の子、彼女たちは、必要以上に何かに敏感で、こっちはその気もないのに、まるで僕たちを変人扱いで見ている。
自分たちだって、見られているという意識があるから、神経が過敏になるんじゃないか。それなのに、男側だけを変人扱いするってどうなのよ。自意識過剰の甚だしいじゃないの。
僕も確かに毎日悶々とした毎日を過ごしている。家からは、
「一人になった方がお勉強が捗るんじゃないの?」
と言われて、僕も最初は一人の方が何でもできると思って、親の言っていることに全面的に賛成し、やっと家から抜け出せた悦びを感じていたんだけど、実際に一人になってみると、今度は何をしていいのか分からなくなる。
予備校の中には、すでに受験を諦めているのか、予備校生という立場を使って、いろいろ企んでいる連中もいるようだが、僕には馴染めない。しょせんは予備校生というのは、高校生でもない、大学生でもない。ましてや社会人でもない中途半端なものなのだ。
受験を半分諦めているのなら、それくらい分かりそうなのに、そんな感覚もマヒするほどになってしまったのだろうか。自分だけはそんな風にはなりたくないと思った。
最初は、部屋に友達を連れてきて、遊べばいいんじゃないかと思ったけど、隣があの夫婦だと思うと気が引けてしまう。旦那さんは優しそうな人だし、奥さんは優しそうというよりも、包み込んでくれるような心地よさを感じる。こんな感覚今までになかったことだ。
だからと言って、好きになったという感じではない。元々僕は年上の女性をあまり好きになれない方だった。バカにされているという思いが強いからであって、トラウマにもなっている。
あれは、高校の頃のことだった。三年生の先輩から、
「お前童貞なんだろう?」
と言われて、恥ずかしさで何も言えなかった時、
「よし、俺が卒業させてやる」
と言って、強引に風俗に連れていかれた。
強引にと言ってはいるが、別に拒もうという気はなかった。一人では勇気が出ないのでこの時、これ幸いにと思ったことで風俗デビューを果たそうと思ったのだ。
「少し早いんじゃないか?」
とも思ったが、せっかく誘ってくれたのだから、これもいい機会だと捉えればいいことで黙ってついていくことにした。
こういう時は余計なことを言わないに限る。すべてまわりに任せることで、事足りるのだ。
何しろ本当に初めてなんだから、背伸びしたって、すぐにバレるだけのことである。正直に初めてだというアピールをしていれば、相手だって、
「かわいい」
と言って、初めて用のサービスをしてくれるはずだ。
強引過ぎず、しかし興奮を最高潮に保ったまま、どこか焦らすような雰囲気に、男は興奮するということは、本を読んで知っていた。
だが、本は本である。実際にその通りかどうか、人によっても違うだろうし、百戦錬磨の相手であれば、本当に任せていればいいだけだった。
別に我慢することもないのだが、我慢している態度を示すことで、相手はかわいいと思ってくれて、感動してくれる。それくらいの思いがあるだけで、あとはすべてお任せだった。
相手の女の子がその時どう思っていたか、計り知ることはできなかったが、僕は満足だった。顔を赤らめて彼女を見ると、
「かわいい」
と言ってキスをしてくれた。
僕も嬉しくなって、さらに恥ずかしさが増してきたような気がした。これが初めてだと思うと、実感が湧かなかったが、それ以上に女性と一緒にいることがどれほど大切な時間なのかを知ることができたのは嬉しかった。
ただ、一つ気になるのは、相手が風俗だということだ。次にするのがもし彼女だったら、僕はどんな気持ちになるのだろう。
「ひょっとしてできなかったらどうしよう?」
という危惧があるのも事実で、
「本当にこの自分が誰か女性を好きになることなどあるのだろうか?」
と思えてならなかった。
そんな彼女を見ていると、どこか動物的なところがあることに気付いた。思わず翌日、近くのスーパーにあるペットショップに行ってみた。今までにもペットショップには何度か入ったことがあり、子犬を見ていると、気が付けば時間が結構過ぎていて、ハッとしたことがあったっけ。
さすがに犬を飼いたいなど家で言えるわけはなかった。うちの実家でも僕の小さかった頃、犬を飼っていた。すでに僕が物心ついた頃にはだいぶお爺さんになっていたようで、よぼよぼだったのを覚えている。
その犬が死んでしまったのは、僕が小学生三年生くらいの頃だったか、学校が終わってから帰ってみると、お母さんがショックで寝込んでいた。どうしたのかと思うと、おばあちゃんがこっそりと教えてくれた。
「イヌが死んだんだよ。お母さんが一番かわいがっていたので、そのショックも大きいんだろうね」
と言われた。
確かに、いつも犬の世話をしていたのはお母さんだった。ご飯の世話も毎日のお散歩も、お母さんの役目だった。
「もう、誰も手伝ってくれないんだから」
と口では言っていたが、まだ小学生だった僕にもその時のお母さんの言葉が本心ではないことは分かっていた。
それだけ犬の世話を焼くのが楽しかったのだろう。
そんな犬が死んでしまった。一瞬にして生きがいを失くしてしまったかのような顔は、僕が見ていても、声を掛けられない雰囲気だった。お父さんは、一向にお母さんに構おうとはしない。イヌが死んだことなど、どうでもいいという感じだ。食事の用意をしていないと言ってお母さんに文句を言っているようだったが、そこはさすがにおばあちゃんが宥めて、お父さんに食事の用意をしてあげていた。お母さんは部屋に閉じこもってしばらくは何もしなかった。お父さんも、そのあたりは気付いてあげればいいのに。
ショックから立ち直ったお母さんに、僕はある日、
「もう、犬は飼わないの?」
と聞くと、顔が微妙に引きつっているようで、すぐには返事ができないようだった。
それでもすぐに気を取り直して、
「イヌは死んじゃうから……」
とそこまで言って、それ以上は何も言えなかった。
僕もそれ以上聞こうとは思わなかった。最初に聞いてしまったことを後悔したくらいだからだ。
――そっか、犬は死んじゃうんだ――
死ぬのは何もイヌだけではない。
人間だって死んでしまうのに、人間が死ぬよりも悲しんでいる様子は、子供の僕には分からなかった。
だから、きっとこの悲しさはお母さんにしか分からないものなんだ。そのお母さんが、
「イヌはもう嫌だ」
と言っているんだから、本当に嫌なのだろう。
あれから、家でイヌおろか、他の動物を飼うこともなかったのだ。