猟奇単純犯罪
と聞いた。
「お隣さんなんだけど、浪人生の男の子が引っ越してきたのよ。そのご挨拶なんだって」
と言っていただいたクッキーを台所のテーブルに置いた。
「へえ、今どき律義な少年じゃないか。引っ越しの挨拶なんか、なかなかしないぞ」
と言って笑っていたが、そういえば自分たちも引っ越してきた時、管理人さんには挨拶をしたが、ご近所さんには挨拶をしなかったような気がする。
「ええ、大人しそうな男の子で、私たちもお勉強の邪魔しないようにしないとね」
と言った。
桜子は専業主婦なので、ほとんど家にいることが多い。一日に一度くらい出かけるが、それは買い物くらいで、一時間くらいで帰ってくる。それなのに、彼がいつ荷物を搬入したのか分からないほど静かだったことを思えば、それほど荷物らしい荷物はなかったのかも知れない。
ただ、実際にはそのほとんどは新たに買いそろえたもので、電気屋さん、家具屋さんなどの搬入が別々にあり、それぞれに時間にすれば少しの間だったことで、桜子の知らない間の搬入だったとしても、それは無理もないことだった。
ただ、実際に荷物は少なかった。必要最小限度のものしか買いそろえなかったようで、彼の部屋を訪れた友達も、
「お前の部屋は殺風景だな」
と言ってたほどであった。
「掃除するのも面倒だし、必要なものだけあれば、それでいいんだ」
と言っていたが、彼の雰囲気を見ていれば、それも分かる気がした。
彼は決して自分から何かをしようとするタイプではない。掃除も洗濯もあまりせず、ためてからする方だった。食事も外食が多く、物音もほとんどしないので、隣で桜子は、
「あの子、いつ家にいるのかしら?」
と思ったほどだった。
普段はあまり人のことに干渉することはなく、人に興味を持つことのない桜子だったが、なぜか隣の浪人生は何かが気になるようで、悪いとは思いながら、時々隣の部屋にグラスを押し当てて、盗み聞きのようなマネをしていた。
音が響くわけもないマンションなのに、聞こえてくるかも知れないと思うことで、どんどん耳を離せなくなってしまった。どんな音が聞こえてくるのか、ドキドキするという感情と、少しでも気を緩めると、聞こえたはずの音を聞き逃しそうになる感覚がさらに桜子の感情を誘った。
「人の会話を盗み聞くことを楽しいと思う人がいるようだけど、何となく分かる気がしてきたわ」
と、いつもなら恥辱に塗れたと思うようなこんな恥ずかしい行為を、どこか自分で正当化させようという思いがあるようで、不思議な感覚があった。
桜子は、中学時代に女だてらに探偵小説に凝ったことがあった。その時に見ていたのは、謎解きやトリックなどがテーマとなっている本格探偵小説よりも、どちらかというと、猟奇的だったり、変態趣味であったりする、ちょっとホラー系の変格小説が好きだったりした。壁に耳を当てて、盗み聞くなど、まさにその時に読んだ変格探偵小説を思わせるではないか。
桜子は、一人弟がいた。桜子よりも四歳下だったので、少し離れていると自分では思っていたが、弟の方はどうだったのだろうか?
弟も大学入試に一度失敗し、一浪していた。二回目の入試はうまく行ったのでよかったが、さすがに最初の入試に比べて二回目はかなりナイーブになっていた。
元々弟は頭の悪い方ではなく、高望みしなければ、浪人することもなかったのだが、第一志望の大学が不合格だったことで浪人の道を選んだのだが、さすがに二回目の入試の時は、
「第一志望が合格しなくても、今度は入学できればどこでもいい」
というほどになっていた。
さすがに二回目の入試では第一志望に合格できたので事なきをえたが、もし、前回と結果が同じであれば、どうしただろうと思うと、それはそれで見てみたかった気がする。姉としてはいささか不謹慎ではあるが、興味深いことであった。
隣に引っ越してきたという浪人生、どこか弟の面影がある。少しあどけなさも感じられ、顔にニキビの跡でも残っていそうな雰囲気である。
まだ思春期を少し超えたくらいの男の子だと思うと、その視線がギラギラしたものに思えてきて。暗い表情のその裏に、どんな本性を持っているのかと思うと、それも興味深いところであった。
さすがに厭らしい目で見てくることはないと思ったが、桜子の中で悪戯心が芽生えたとしてもそれは不思議ではなかった。
「そうだ。今度カレーを作って、作りすぎたというのを理由に、お隣におすそ分けでもしてみようかしら?」
というほどの悪戯心だった。
「浪人生で、いかも一人暮らしの男の子の部屋を、隣の奥さんがおすそ分けを持って訪ねるなんてシチュエーション、考えただけでもゾクゾクするわ」
と、すぐにその気になってしまい、次第にその妄想は現実味を帯びてくるようになっていた。
翌日カレーを作った鍋を持って隣のベルを鳴らした桜子だったが、
「お隣のものですが」
と言って、扉を開けてもらい、
「カレー作りすぎちゃって……」
と言って、彼に手渡した。
「あっ、それはどうも」
と、彼もあっけに取られていたが、すぐに笑顔になって、少し赤らめた顔で、頭を下げてくれた。
この時、
「このマンションで分からないことがあれば何でも聞いてね」
と思わず口にしてしまった。
まだ自分たちも入居してきて三か月だというのに、本来ならどの口がいうのかというほどなのだろうが、
――どうせ、彼が私たちに聞いてくることなんかないわよね――
という思いが強かったので、そんな大胆なことも言えたのだろう。
こんな他愛もない会話、マンションではよくあることなのだろうか。ただ、?シネマであったり、成人向けの作品であったりすれば、これくらいの会話は別に普通にあることのように思えた。
このマンションに引っ越してくると、地元のケーブルテレビが回線を敷いていて、契約だけを行えば、工事がいらないということだったので、ケーブルテレビと契約している家庭も多いという。牛島家もその類に漏れず。ケーブルテレビを契約していた。
チャンネルによっては、そんな成人作品や?シネマ系を専門でやっているところもあり、専業主婦で、ある程度の家事が済めば暇な時間を迎える桜子は、時々そんな番組を見ていたのである。
この間見た?シネマでは、一人暮らしの大学生が、隣の新婚夫婦の夜の声を壁を通して耳を押し当てるようにして聞いているというような話があった。聞かれていることを知らずにエッチな声を上げている夫婦のうちの奥さんの方が、そのうちにその事実を知ることになるのだが、そのショックたるや、どんなものなのだろう。映画では、奥さんはさらに声を大きく上げて、わざと隣に聞かせようとしていたが、男の子の方もそのことに気付いて、最初は興奮していたが、次第に冷めていくようだった。映像を見ていて、そのあたりの精神的な流動性が、桜子には分かりかねるところがあった。そして最後には、
「これの何が面白いのかしら?」
と結局考えるのをやめてしまった。
ひょっとすると、リアルさが感じられないことで、飽きてしまったのかも知れないと思ったのかも知れない。
――――――ここからは、浪人生の感じたこと