猟奇単純犯罪
思わず声が漏れそうな気がして、自分でも目がトロンとしているのが分かった。
そんな様子をこの時の客は見逃さなかった。触れてもいない指が、ねちっこく、自分の足の上を這っているかのようだった。まるでピアノの鍵盤を叩いているようで、その動きは淫靡であった。スーッとズボンの上をぬっているような感覚で、彼の目は、ずっと桜子の腰のあたりを見つめていた。
彼の視線と指の動きが違っていることで、まるで催眠術にでもかかったかのように、腰がふらつく桜子は、自分がそのまま果ててしまうのを感じた。
「横にいる先輩キャバ嬢に知られたくない」
と思って、顔を向けると、彼女も目の前の男と同じ表情をしていた。
「どう? 気持ちいいでしょう?」
と言っている。
「ええ、気持ちいいわ」
と声には出さないが身体がそう反応していた。
その場にいる男と女から、同時に攻撃されていると思うと、恥ずかしさで顔が真っ赤になり、その場から逃げ出したい衝動に駆られたが、身体はその思いに反して、決してそこから離れようとはしなかった。
「もっと、して」
このまま果ててしまえば、どんなにか気持ちいいだろう。
しかし、二人はそれを許さない。あくまでもニヤニヤしているだけで、桜子が我慢できずに、その場で失神するのを待っているかのようだった。
失神まではしなかったが、身体から溢れる厭らしい体臭や体液で、意識不明寸前まで行っていた。その場で絶頂を迎えてしまうと、間違いなく、失禁したまま気を失っていたことだろう。
さすがにそこまではできないということで、ギリギリのところで寸止めされた。この興奮が、桜子の中で強烈な印象となり、ある意味トラウマとして身体に沁みついてしまったようだ。
そして、同時に桜子は自分がM気質だということを、その時に初めて気づいたのだった。桜子は、自分が恥ずかしい体質なのだと思い、体験入店だけで、結局そこで働くことはなかった。ただ、男性に対して恐怖心や、依存心のようなものが芽生えたというわけでもない。どちらかというと、
「私には普通の恋愛なんかできないのかも知れない」
という思いがあったくらいだった。
しかし、彼氏ができたことであれだけ性格もいい方に変わったりえを見ていたので、彼氏を作りたいという思いは持ったまま、ただ彼氏を作らなかっただけだった。
そのせいか、大学を卒業するまでは、男性と付き合うことはなかったが、大学を卒業し就職も決まると、環境が変わったおかげで、彼氏ができそうな気がしてきたのは、
「元々ポジティブな性格だったのかしら?」
と、桜子は感じた。
就職し、少し仕事に慣れてくると、気持ちに余裕ができてきたのか、まわりを見る気にもなってきて、気になる男性も出てきた。その男性が今の旦那である、牛島幸助だった。
幸助は真面目な性格というものを判で押したような人で、仕事中、まったく余計なことも言わないような、一種の堅物に見えた、
「牛島さんは、仕事上では頼りになるけど、男性として付き合うという気分にはなれないわね」
というのが、独身女性社員の一致した意見だった。
女性社員も数人いれば、一人の男性に対しての意見はそれなりに割れるものだが、この牛島という人に対しては、ほぼ皆一致した意見だった。
「それだけ、ブレない性格ということなのかしら?」
と、桜子は感じ、そこに魅力を感じるのだった。
桜子は牛島をいつも注意して見ていた。まわりの女性社員からは、そんな桜子の態度は丸わかりだったのに、逆に見られている牛島の方は、なかなか気づかないようだった。
「何て鈍感なのかしら?」
と、他の女子社員は皆そう思っていたようで、
「牛島さんとか、やめなさいよ」
と助言してくれる女子社員もいた。
「え、ええ」
と曖昧に答えたが、桜子の中では意中の人という意識があったので、それを否定する気にはなれなかった。
そんな日々が一月ほど経ったであろうか、やっと牛島も気づいたのか、ある日仕事の帰りに、
「今日、お時間ありますか?」
といきなり聞いてきた。
「えっ?」
と、半分ビックリ、半分嬉しさでそう聞きなおすと、
「よかったら、一緒にお食事でもどうかと思って」
と言ってきた。
もちろん、断る理由など何もない。いつ誘われてもいいように、予定は開けておいた。いや、最初から予定など何もなかったと言ってもいい。桜子が返事をしないと、了解だと思ったのか、牛島は無言の桜子を引っ張るように会社を出た。
――この人、思っていたよりも積極的な人なんだわ――
と感じた。
――ひょっとすると、今まで何もリアクションを起こさなかったのは、気付いていなかったわけではなく、私の気持ちを思い図っていたのかしら?
と思ったほどの積極性に、
――男性は、こうでないと――
と思った桜子だった。
牛島は会社を離れれば、結構饒舌だった。多趣味でもあり、映画の話や最近読んだ小説の話など、芸術的な話も交えて、話も飽きさせないものだった。
仕事が終わっての食事の時間は彼の饒舌もあって、あっという間に過ぎて行った。
「今日はどうもありがとうございました」
と桜子がいうと。
「いえいえ、こちらこそ。これからもよろしくお願いしますね」
と言って、彼は握手を求めてきた。
桜子も誠実さが感じられた牛島に好意を寄せていたので、素直に手を差し出し、握手をした。
思ったよりも冷たく感じたが、
――掌が冷たい人って、逆に心が温かいというわ――
と自分に言い聞かせた。
その思いが合っているのか間違っているのか、桜子は分からずに、その時に感じた感覚は意外とすぐに忘れて行った。
それから、適度なタイミングで牛島はデートに誘ってくれた。ほとんどが仕事帰りだったが、ある日、
「今度の休日、ご一緒できれば嬉しいですね」
と言ってきたのが、初めて食事をしてから一月ちょっとしてからだった。
タイミング的にはちょうどよかったのではないだろうか。桜子としても、
「そろそろかしら?」
と思っていたからだ。
彼との最初のデートは美術館だった。会社の近くに大きな公園があるのだが、その端の方に県立美術館があり、少し建物としては古く、少し森のようなところにあるので、意識しなければ見過ごしてしまいそうなところであった。
ちょうど、フランス絵画の印象派の美術展が行われていて、絵画にあまり興味のない桜子でも知っているような有名な画家の作品もあり、まったく分からないわけではなかったのは安心できた。
それよりも今までに美術館なるところにほとんど足を踏み入れたことがなかっただけに、一緒にいるのが、付き合っている牛島だというのが嬉しかった。息苦しくほど空気の薄さを感じる。無駄に広い空間に、音がわざとらしく響いているようで、気が遠くなるのを何とか抑えているかのようだった。
「大丈夫ですか?」
やはり、少し息苦しさが顔に出ていたのか、牛島が気にしてくれた。
「時間はゆっくりあるので、慌てなくていいですよ」
と、身体を支えるように、歩いてくれた。