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短編集90(過去作品)

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 駅に着いてから宿までどうしようと思っていたが、そんな心配はいらなかった。ローカル線の寂れた駅ではあったが、駅を降りるとタクシー乗り場があり、そこにはタクシーが待っていたのだ。
 一時間に一本あるかないかのローカル線、駅はもちろん無人駅である。それでも駅に看板がいくつか掛かっていて、病院の看板と、温泉旅館の看板があった。しかし、さすがによく見ると、錆が激しいようでところどころに穴も開いていた。
「すみません、甘木屋までいいですか?」
 甘木屋というのは、予約していた宿の名前である。
「どうぞ」
 といって後ろを振り返った運転手は扉を開けてくれた。さっきまで客も来ないということで、帽子を顔に当てて椅子を半分倒していたので、寝ていたのだろう。ふいに起こされて、さぞやビックリしたのではないだろうか。
 車は駅から続いている一本道を走り始めた。やけにゆっくりなのは、運転手が安全運転主義だからだろうか、それとも大らかな街に住んでいるので、せわしい自分たちと性格的に違うからそう感じるのだろうか。きっとそのどちらもなのだろう。
「運転手さんも大変ですね? いつ来るか分からないお客さんをずっとあそこで待っているんでしょう?」
「そうですね。でも、結構利用客はいるんですよ。ここは駅の近くよりも、少し離れたところに集落があるので、そこの人たちが利用してくれるんです。でもほとんどの人は車を持っているので、絶対数からすれば少ないですけどね」
 ミラーに写った運転手の顔は、いかにも田舎ののどかな風景に似合っていた。いつも笑顔なのだが、きっと表情を変えるとしても一テンポ遅いのではないかと思えるのは、気のせいではない。
 いくつくらいなのだろう? 四十歳は過ぎているように見えるが、差し込んでくる西日に当たっている肌にはしわを感じない。顔に影が映っているところを見ると彫りの深さから、若い頃は結構もてたのではないかと思わせる。
「甘木屋さんというのは、どんな宿なんですか?」
 山間にある宿だと聞いていたので、走っているあたりはまだ平野部である。目指す先には小高い山が見えているが、そこまではまだ少し時間が掛かりそうだ。話を聞くくらいの時間は十分にある。
「昔はこのあたりも炭鉱だったので、結構人も多く住んでいて、さっき降りた駅も栄えていたんだけど、最近はさっぱりでしてね。そんな中で甘木屋さんだけは、ずっと営業を続けているんですよ。古風で日本式の宿が好きな人にはお勧めの宿ですね」
 なるほど、まわりを小高い山が囲んでいるような小さな平野になっているこのあたりではあるが、遠くに見える山がどこか不自然に見えた。それは山肌に生えている木がまだらに見えるからだった。元々炭鉱だったと考えれば不思議ではない。さぞや、昔は山を削っていたのだろう。今でも形が歪になって見える山がいっぱいである。
 じっと光が差している山間を見ていると、
「今では綺麗に映え揃ったんですが、炭鉱がなくなった当初は山も可愛そうなものでしたよ。まるで“つわものどもの夢の跡”って感じですかね」
 坂下も前ばかりを見て仕事をしてきた。今までに過去を振り返ることは、せっかく順風満帆な勢いを妨げるしかないと思えてならなかったが、こうやって“つわものどもの夢の跡”を見ていると、自分のしてきたことを思い出すのが怖くなるくらいだった。
「でも、どういうわけなんでしょうね。最近は毎日一度は甘木屋さんに行くお客さんを乗せるんですよ。それほど流行っているわけでもないし、どこから噂を聞きつけてくるんですかね。不思議なんですよ」
「何か、曰くでもあるのかい? 甘木屋という旅館には」
「曰くってほどではないですが、流行っていた頃の常連さんで持っているような宿だとずっと思ってきたんですよ。実際に女将さんもそう言ってましたしね」
 急速に寂れていったのだろう。こんな街での温泉街で他にもいくつか宿があったのかも知れないが、その中で残っているのだから、やはり常連の力というものが、少なからず影響しているのは当然のことだ。
 それにしても毎日必ず一人というのも面白い。今日向こうに行けば他にお客さんもいるかも知れない。それを思うと、複雑な気持ちだ。
 一人でいたいと思うのは当然だが、反面一人になりたくない。
――臆病風に吹かれているのか――
 と言い聞かせると、
――誰かがいると、死んだ気になって、もう一度やり直せる気分になるかも知れない――
 ともう一人の自分が囁く。だが、それも相手によるだろう。今の坂下は一番人恋しい状態にあるのは間違いないが、一番シビアに人間というのを見ることができるような気がしてならない。下手に中途半端な人間であれば、人間不信に陥らないとも限らないだろう。
 タクシーに乗ること約十五分、目指す旅館「甘木屋」に到着した。距離的にかなりあったように思えたが、所詮は田舎の一本道、感じているよりもかなり時間的には短かったようだ。タクシーが砂利道になっている玄関先に到着すると、タイヤの音が響いたのだろう、すでに玄関先に旅館の人たちが出迎えに現われていた。
「いらっしゃいませ」
 大きな声がまわりの山にこだまするかのごとく響いている。
――山間にひっそりと佇んでいる静かな宿――
 まさしく、想像したその通りの宿である。
 案内された部屋に入ると、まず縁側にある籐椅子に腰掛け、表を見た。
 中学時代から事業家を目指してきた坂下だが、会社に就職してからの一時期、趣味でカメラをやっていた時期があった。もちろん、いずれは事業家として独立する目的を持っていたので、それほど本格的にしていたわけではないが、今でも綺麗な光景を見ると、まるで自分の目がファインダー越しに覗いているような錯覚に陥ることがある。
――もしカメラマンになっていたら、どうなっていただろう――
 今まで考えたこともなかった。カメラはあくまでも趣味、気分転換の域を超えることはなかった。事業家として前だけを見る人生、それが自分だと思い込んでいたのだ。
 カメラマンになっていたら、生活に窮していたかも知れない。どこかに所属していればストレスが溜まっていただろう。だからきっとどこかに所属することもなく、フリーのカメラマンをしていたに違いない。そこが、坂下の芸術家的な性格を持っているという一面でもある。
 フリーになるのが芸術家的な性格であるならば、事業家を目指したいと思ったところも芸術家的な性格の表れではないだろうか。人間を二つの性格に分けるとすれば、芸術家的な面を持った人と、事業家的な性格を持った人に分けられるかも知れない。そのどちらもは共存できないものだと坂下は思い込んでいたが、本当にそうだろうか。今、事業家として初めて味わった挫折に、前しか向いていなかった目が、まわりを見れるようになったというのは、皮肉なものである。
――おや――
 表を見ていると、どこかで何かが光ったような気がした。最初は分からなかったが、もう一度光ったのを見ると、フラッシュが炊かれたのだということがハッキリと分かった。昔取った杵柄で、懐かしさを覚えると同時に、目の前に広がる森の向こうに何かファイダーに納めたいような光景が広がっていることに興味を覚えた。
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次