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短編集90(過去作品)

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 よく耳を澄ましてみると川の流れる音が聞こえる。せせらぎのような音ではなく、まるで滝でもあるかのような力強さである。
「女将さん、ここから先には何か綺麗なところがあるのかい?」
 と振り返って聞くと、
「ええ、この先には滝がありますよ。綺麗というよりも力強いという感じでしょうね。薄着で行くと寒いくらいですよ。うちでは、そのために夏でも上に羽織る厚手のものを用意させていただいています」
「今、フラッシュが炊かれたみたいなんですが」
「ええ、今日は女性のお客さんが一人で泊まっておいでですので、その方だと思います。そういえば、大きな荷物を持っておられたので、それがお写真の道具だったのかも知れませんね」
 晴れているので森に当たる光は眩しいのだが、森の中は真っ暗に見える。そのギャップが芸術的で、少し落ち着いたら行ってみたい。
「それではごゆっくり」
 そう言って女将さんが下がっていくと、さっそく服を着替えて、表に出てみることにした。
――さっきまで西日が見えていたのに、なかなか日が沈まないな――
 と、漠然と感じていたが、時計を見るとそれほどの時間が経っていない。
 浴衣に着替えて上着のような半纏を羽織ると、さっそく森の中にできた道を歩いていった。粗末な道だがそれでも丁寧に作られていて、何とか舗装された道に下駄の音が響いている。
 さすがに滝があるだけに、晴れていても年中湿気で覆われているため、舗装しておかないと道がドロドロになってしまうのだろう。地元の人の努力なのだろうが、歩いていて歩きにくいこともない。
 滝の音がだんだんと大きくなってくる。それに伴って森の枝の揺れも大きくなり、湿った風が強くなっている。
 急に森が開けてそこには滝が見えてきたが、さっきまで緑に覆われていたため薄暗かったところに、一気に明るさが戻ってきた。
 戻ってきた明るさはまるで蜃気楼のようだ。湿気で幕ができてしまっていているが、微妙な波を打っている。それはまるで薄い滝を見ているような不思議な感覚にさせられた。
 扇風機が勢いよく回っているのを見たことがあるだろうか。高速で回れば回るほど、羽根の色は白くなり、そしてまるで反対方向にゆっくりと回っているような錯覚に見えるのを見たことのある人はたくさんいるだろう。坂下は滝を見つめながらそのことを最初に感じていた。
 膜のような霧が掛かった中で、滝に向かってファインダーを切っている一人の女性がいる。音がうるさいからなのか、集中しているからなのか坂下が広場に現われたことに気付いていないかのように滝を見つめている。
 二度ほどファインダーを切ると、急にこちらを振り向いた。さぞや驚くかと思ったが、その表情に笑みが浮かんでいた。
「はじめまして、邪魔しちゃいましたか?」
「いえ、そんなことはないですよ。ちょうど休憩しようと思ったところです」
「私がここにいたには気付いていたんですか?」
「ええ、来られたのは分かっていましたが、滝に集中していましたので、挨拶が遅れまして申し訳ありません」
「いえ、こちらも却って気を遣わせてしまって恐縮です。それにしても、ここの写真を撮るというのも珍しくはないですか?」
「そうでしょうね。でも私は、最初からこの写真を撮るつもりでここに来たんですよ。笑われるかも知れませんが、ここの光景をずっと以前から探していたんですよ。それはカメラに撮るためではなくね。以前からここのような光景が夢に何度も出てきたんですよ。だから記憶にあるうちに探して、それを永遠のものに残しておきたいと思ったんですね」
 同じ夢を何度も見るということも珍しい。どこか以前にも見たことがあって、その光景が目に焼きついているのではないだろうか。
「芸術作品というのは、そういう気持ちから生まれるものなのかも知れませんね。人の心を打つものは、やっぱり作者本人の心を打つものでなければいけないってことですね」
 坂下は自分の経験から話したつもりだ。彼女も「うんうん」と頷いている。坂下は自分がカメラをやっていた頃のことを思い出した。
――カメラを始める本当のきっかけって何だったのだろう――
 今さらながらに考えてしまう。
 元々坂下は、自分で見たものや触ったものでなければ信じないところがあった。撮ってきた写真を人に見せて納得させるわけではなく、逆に自分で見たものを永遠に残しておくことに興味を持ったといっても過言ではない。
――目の前にいる女性、記憶の中にハッキリと残っている――
 きっとどこかで自分の被写体になったことがある人に似ているのだと思うのだが、一体どこでだったのだろう。今までのファインダーで収めた場所を思い出しながら、彼女の姿を記憶の中の景色に織り込んでいく。
 以前から仕事で疲れた時や精神的に一段落した時、気分転換の意味で今までのアルバムを引っ張り出して覗いてみることがあった。だからまわりの光景と人物はハッキリと記憶にある。しかし、人物は狙って撮っているわけではなく、皆自然に写っているのだ。動きの中での写真であり、表情もそれぞれ豊かで、無駄な動きには見えない。
 したがって、正面を向いている顔は珍しく、それぞれの位置に光が当たって、正面から見るのとではきっと表情から受けるその人の印象はかなり違ったものになっていることだろう。
 正面から見た彼女の顔は、何かを訴えるような表情に見える。見つめられてドキッとしてしまう表情である。
 最近、坂下は自分が忘れっぽくなっていることを気にしていた。都合の悪いことだけ忘れさせてくれればいいのにと思いながら、そう感じていると、本当にすべてのことを忘れっぽくなってしまっている。
――考え始めると、余計に深く考えてしまうんだろうな――
 と思わないでもない。
 彼女は名前を利美と言った。名前を聞いてもピンと来ない。きっと違う名前で記憶しているのかも知れないが、その名前を思い出さないのだ。
 利美は「永遠に残したい」と言った。「永遠」とは一体なんだろう?
 坂下の辞書に、「永遠」という言葉はない。
――形あるものは、必ず朽ち果てて形状を変えてしまう――
 という考えの元、もちろんまったく形を失って土に返るものもあるだろう。その代表例が人間ではあるまいか。
――人の肉体は滅んでも、魂は永遠である――
 と言われるが、本当にそうなのか信じられるものではない。自分の目で確かめたり、実際に触ったりしたものでないと信じない坂下らしい考えだ。
 それにしても、今頭の中で燻っているものは何であろう。以前に見たことがある、会ったことがあるという思いを感じたことなどなかったはずなのに、急に感じるなど、やはり今の精神状態はおかしなものになっているに違いない。
――死というものを意識すると、それだけ精神状態が敏感になるのだろうか――
 というよりも、見ているのが今の世の中での記憶だけではないように思えてならないのだ。
 利美という女性を見ていると、
――死んではいけない、生きなければならないのだ――
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次