短編集90(過去作品)
人の話を聞いていて他人事に思えない時がある。社長をしていれば、中にはそんな性格の人もいるだろう。
――先祖は成金だったのか――
とも感じたが、先祖に事業で成功した人の話や、地主や社長などがいたなどという話は聞いたことがない。きっと坂下は先祖代々からしても唯一の成功者なのだろう。
尋ねてきた人を見た時、やはり他人事に思えなかった。人の話を親身になって聞くことはあっても、あまり同情してはいけないといつも感じているのに、その時ばかりは、相手に同情してしまった。それはどこかに自分との共通点を見つけたからだ。
坂下は決してお人好しではない。社長をしていれば、それは最低限に必要なことだ。しかし、昔からの性格で、他人を自分に置き換えてみてしまう。そういう見方をすることが相手を知る一番の近道だと思っているからに違いない。
男は尋ねてきてから話し始めるまでに時間が掛かった。あまり時間が掛かりすぎればさすがに痺れを切らして追い出すところだが、そのタイミングも微妙だった。うまくその寸前で相手が切り出してきたのだ。
――ここまで待ったのだから聞かないわけにはいかない――
まさか相手の作戦だったなどとは思えない。男は坂下の顔を見ることもなく頭を垂れたまま、自分の指先を見つめていたのだ。
――人差し指を手前に折り曲げながら何かのリズムを取っている仕草――
それはまさしく坂下の学生時代の頃からあった癖である。他人事に思えなくて、しかもギリギリまで痺れを切らさなかったのは、その姿を見たからである。
手品の中で、見ている人に思惑通りのことを無意識にさせて惑わせるというものがある。当然、させられた本人には、自分の意志でしているとしか思えないような魔術である。心理学に近いものといってもいいだろう。特にテーブルマジックなどに多く、
――これは自分の意志で選んだカードだ――
と相手に思わせてしまう魔術である。
坂下はその時のことを思い出すと、まるで自分が魔術に掛かっていたのではないかと感じていた。いわゆるマジシャンズセレクトと言われるやつである。
その時のお金がまさか命取りになるなど思いもしなかった。いや、嫌な予感はあったのだが、無理にその気持ちを押し殺していたようにも感じた。男の巧みな誘いに、却って警戒心を抱いたのは、さすがに社長業をしていて相手の気持ちを分かるようになったからだろう。
しかし、如何せんそれを断る理由が見当たらない。断る理由がなければお金を貸してしまうのは今までの坂下の行動パターンで、行動パターンを変える方が却って自分に嘘をつくような気持ちになってしまう。
――嫌な予感がするというだけで、行動パターンを変えてしまうと後悔することになるだろう――
野球選手で投手がピンチにマウンドにいるとしよう。坂下は野球が好きでよくテレビを見ていたが、解説者の言葉を思い出していた。
「ここは、得意なボールで勝負すべきでしょう。打ち取れる可能性が少々高くても、打たれてしまってから、どちらが尾を引くか考えれば、私は得意なボールで勝負すべきだと思いますね」
二つに一つの選択で、確率が少々接近していれば、自分で後悔しない方を選ぶのが懸命だということである。その考えには坂下も賛成だった。今までにも同じような選択肢を迫られた時には、迷わずこの法則に従ってきた。今回はそれほど大袈裟なものではないのだが、自分の中にある嫌な予感が邪魔するのである。だが、坂下は結局行動パターンを選ぶことになる。
――後悔はしていないさ――
自分で選んだ道、それが間違いであった。それだけのことなのだ。
他人事ではすまされないという思いが坂下にプレッシャーを与える。坂下は何かに吸い寄せられるような気持ちで旅に出た。
自殺を決意したのがいつだったか分からない。意外とアッサリと決断したように思う。こういうことは悩んでしまっては、悩みは泥沼に入り込む。思い立ったら行動に移さないと、躊躇ったら先には進めない。
いいことなのか悪いことなのか分からないが、気がつけば温泉宿の予約を入れ、ローカル線の車内にいた。さすがに会社の誰にも告げずに来たので、会社では社長が夜逃げしたとでも思っているかも知れない。ひょっとして警察に捜索願あたりを出しているかも知れないが、それでもよかった。今はとにかく自分のことだけを考えたかった。
――なんてわがままな社長なんだ――
しかし、今まで一度も見せたことのないわがまま、一世一代のわがままを武士の情けとまで考えていいのだろうか。それすら坂下には他人事だった。
以前に買ったガイドブックが部屋の机の上に置かれていた。
――おかしいな――
今まで一度たりとて開いたことのない本、時間的なゆとりができれば行ってみたいと思っていたが、如何せん仕事が生きがいで、忙しさこそ自分の生きる道のように思ってきた男に時間的なゆとりは却って邪魔なものであったはずだ。疲れている時に気持ちのゆとりを持ちたくて買ったようなものだった。
そんな本が机の上に置かれている。いつ置いたのだろう?
置くとすれば自分しかいないはずだが、記憶にない。きっと無意識の行動だったのだろうが、
――まあいいや、せっかく机の上に出ているのだから、ちょうどいい――
そう思って、中身を見てみる。有名どころの温泉地がいろいろ紹介されていて、宿のデラックスさや、料理の豪華さには、今まで摂ってきた豪勢な食事とはまた違った趣を感じさせられた。
しかし、その時の坂下には、そんな普通の温泉地には興味がなかった。記事を見てそれなりに感じてはいるのだろうが、何かどうしても他人事にしか思えず、行ってみたい場所には程遠さを感じていた。
そんな中、コラムのようなところに寂れた温泉が紹介されている。ローカル線の終点の駅、本当に寂れた温泉という書き方がされていて、訪れる人もまばらで老舗旅館が一軒、ひっそりと営業していると書かれている。
――これだ――
と直感した坂下は、さっそく電話で予約を取り付けた。電話に出た相手の声も、まるでこの世のものとは思えないほど遠くに聞こえ、どうかすれば機械音に近かったことで、
――本当に大丈夫かな――
という一抹の不安を覗かせた。
「お待ちしております」
兎にも角にも、この言葉で予約は成立したのだ。
――あの時はどんなつもりで予約を入れたのだろう――
走り去る車窓から見える光景は、遠くの山を見つめていた。山を中心に見ていれば全体を見渡すことができる。夕方近くになっていたので、夕日が山に隠れようとしている時間帯だった。
車内に差し込む夕日を、普通ならブラインドを下ろして避けるのだろうが、せっかく初めて見る景色を遮りたくはなかった。それでは反対側にいけばいいのだろうが、そこまで考える余裕もなく、田園風景が広がる中、ところどころに伸びている影を見つめていた。
伸びている影は、家の影だったり、木の影だったりする。規則的な長さが流れていく中で、影だけが、距離感を感じさせてくれた。
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次