短編集90(過去作品)
誰しもが通る道
誰しもが通る道
人生はどこでどう転ぶか分からない。
――順風満帆――
この言葉の申し子でもあったかのように思っていた自分が、ある日を境に一気に奈落の底、こんなことも世の中にはあると思っていたが、それもすべて他人事だったのだ。
世間は、成功者と挫折者の二パターンに分けられる。どんなものを目指していようとも同じで、ただ結果というのがいつの時点かという見極めが難しいのであるが、人生の中にあるたくさんの分岐点、その瞬間瞬間に自分がいることに気付く人間がどれだけいることだろう。
坂下健吾も、今までに数回感じてきたが、さすがに今回は参っていた。初めて味わった挫折と言ってもいいからだ。
小さい頃から勉強が好きで、あまり野心がなかった小学生時代。まだ子供なので当たり前だが、それほどなりたいものもハッキリしていなかった。漠然と、電車の運転手やパイロットなど、普通の子供が抱く普通の夢を描いていたくらいで、それ以上はあまり考えていなかった。
中学に入ると少しハッキリしてきた。事業を起こしたいと思うようになったのは、その頃からだろう。父親が典型的なサラリーマンで、上司の愚痴などをこぼすことが多くなったのもその理由である。
――文句を言うくらいなら、自分が上司になればいいんだ――
と思うのは無理のないことだろう。
しかも先生自体もいかにも公務員、都合の悪いことには目を瞑っている感覚だ。正義感が強かった坂下は、ここは自分が事業を起こして、働きやすい会社を目指そうと考えたのだ。
大学に入れば経営学を勉強し、就職も大手商社にトップの成績で入社、会社ではエリートコースを歩んでいたが、それもこれも自分が事業を起こすためのプロローグでしかなかった。
そんな坂下が事業を始めた時は、完全に「ときの人」だった。当時まだ誰も手を出していない事業を手がけ、まわりからは、
「大丈夫か? そんなものに手を出して」
と言われていたが、よほどの先見の明があったのか、成功を収めた。
しかし、難しいのはここからで、抜いた鉈を納めるタイミングが一番難しいと言われるのは戦争と同じことで、特に経済や市場のように流動的なものは、いつ手を引くかがカギになるのは誰しも感じていることだ。
特にバブルが弾けてこっち、ブームの期間が一気に短くなり、気がつけば終わっていたなどということは往々にしてあることだ。それを分かった上で事業を展開していたはずなのだが、どうしても最初に成功を収めた事業には愛着を感じるものだ。どこか優しさがある坂下は、会社のシンボルとして成り立ってしまった事業、そしてそのパイオニアとしてのプライドが邪魔をしてなかなか手を引くことに踏み切れなかった。もし、ここで手を引いてしまって、会社のイメージが地に落ちることを心配もしていたからだ。
――最初から決めていたことだったのに――
と、心に決め、しっかりと市場を見極めた上で、鉈の納め時は間違えないことを肝に銘じていたはずだった。どこでどう間違えたのだろう。やはり、優しすぎる性格が判断を鈍らせてしまったに違いない。
――事業者は時として鬼にならなければならない――
これも分かっていたはずだった。これは本当に優しさと言えるのだろうか。
優しさというのであるならば、もっと先を読んで社員が路頭に迷うことのないように考えるべきではなかったか。今から思えばそんな気もしてくる。
――いつ頃までだったかな――
ずっと前だけを見て、一切の不安なく進んでいた頃を思い出していた。前を見続けていたが、どこかからか後ろが気になるようになってきたのを覚えている。一旦気になってしまうとそこから先の不安は留まるところを知らない。後ろを見ようにも恐ろしさからか、振り向くことができないのだ。
いつも社長室の椅子の上に座っているだけではなく、精力的に動き回っていた、どちらかというと落ち着いて座っているのが苦手な方で、よくまわりを見ている社長だということで、雑誌にも紹介されたことがあった。
もちろんそれも会社が上昇気流に乗っかっている頃で、その頃には経済誌によく登場もしていたものだ。インタビューなどのマスコミ受けも我ながら悪くはなかったと思っていたので、取材も多かった方かも知れない。
しかし、それも一部業界だけのこと、全国的に有名だったわけでもない。地元企業の大手といったところだが、それでも坂下は満足だった。
地元密着は坂下にとっての念願でもあった。中央に出ても、結局中央の勢力に圧されるのは分かっている。それを無理に出ようとすると、「出る杭」になって、打たれてしまうのオチだ。
しかし、どれほど地元の発展に貢献しても、さすがに会社が傾きかけると、うまくいかないものである。金融機関の中には完全に見限っているところも出てきて、上昇気流に乗っている時は、
「融資はお任せください」
と言わんばかりに頻繁に訪問していたのに、裏を返したように、一切来なくなる。こちらから趣いてもなかなか会ってくれないし、会えば会ったで、債権行使をちらつかせ、取り付くしまもない。分かってはいたことだが、実に世の中は冷たいものだ。
債権者の顔が野菜や果物に見えてくる。意識が朦朧としてくると本当に人の顔が分からなくなってくるというのは本当のことかも知れない。
逃げしたとは思いたくないが、きっと会社の人たちも坂下を探していることだろう。残してきた連中には申し訳ないことをしたが、どうにもならない。
――死んで詫びるしかない――
と思うのも仕方のないことだが、その反面、
――残してきた人たちへの後ろめたさが――
と思わなくもない。
金銭的には今まで扱ってきた金額からすれば微々たるものだ。その微々たる金額が、今の段階ではどうにもならない。あてにしていた人はいたのだが、思わしくない会社の事情を察知して、あてにできなくなってしまった。向こうも商売である、当たり前といえば当たり前だ。
――死んだ気になれば何でもできる――
という言葉があるが、実際に死ぬつもりでやってきて、死に切れなかったらそんな気になるのだろうか。それを感じてみたいという愚かともいえることを考えていた。
今までは忙しさがそのまま生きがいだった。絶えず身体を動かして、動かせば動かすほど、結果として会社の業績に現われる。これほど楽しいことはないではないか。一生懸命が実を結ぶことが生きがいとなる。それこそ人生そのものだった。
しかし、たった一つも過ちが命取りになってしまった。確かに油断である。性格的なものと言ってもいいだろうが、まさかそれが致命傷になるなど思ってもみなかった。
後から考えれば、
――何と浅はかだったんだろう――
と思うのだが、それも自分の性格が招いたことなので仕方がない。そのために会社の従業員、そして会社を取り巻く多くの人たちに迷惑をかけてしまった。まさかこれほどまでに影響があるとは、さすがに思ってもいなかった。
それだけ、会社が順風満帆で、上昇気流に乗っていたのだ。自分の感じるスピードよりもはるかに、まわりに影響を受ける人や団体が増えていたのだ。
――自分の性格――
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次