短編集90(過去作品)
そこに写っている姿は何十年後かの佐々木の姿だろう。よかったと感じたのは、まだ髪の毛があるからだ。なくなってしまうことにはさすがに危惧を感じるが白髪になるのであれば、それでいいと感じていたからだ。
――そういう問題ではないだろうに――
とも感じるが、夢で割れた鏡を見た時、自分が若返ったように思えたのだ。
――だが、そんなころが信じられるものか、鏡に写ったのが真実なのだ――
佐々木はどちらかというと現実主義者である。いくら自分が感じたことであろうとも、目の前に事実として写されてしまっては、それが真実だと思ってしまう。しかも、鏡が割れている暗示を夢で見て、実際にその鏡が割れているのが分かった、帰ってきて割れている事実を見て、そこに写っている自分が白髪だった。一瞬だが、鏡を見て白髪であることに余裕が持てたのだけが救いだったのかも知れない。
途端に不安になってくる。それからの行動は自分でも分からない。不思議なのは、白髪の老人が写っていたにもかかわらず、身体だけはまるで若返ったように思えたのだ。こむら返りもまるでなかったかのように消えていたし、今なら何をやっても身体がついていけるような気がしていたのだ。
しかし、気がつけば洗面台に水が溜まっていて、そこに両腕をつけていたのだが、水がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。意識が朦朧としてくる中で、真っ赤に染まる水が印象的だった。
――ああ、このまま死んでしまうんだ――
佐々木はそう感じた時、本当の自分の気持ちに気付いた。鏡を見るのが怖かった自分、そして鏡を見て感じたこと、それが、
――ずっと歳を取らずにいたかったんだ――
だということを……。
鏡を見続ける男は、あいかわらず記憶が戻る気配のないまま、一週間が過ぎようとしていた。桜も散ってしまって、病院の外には、散った花びらが桜の木を放射状に囲んで、まるで見上げているようだった。
男は表のベンチに座って散った花びらを眩しそうに見つめている。眩しいはずなどないはずなのに、時折手で庇を作って見つめる先は地面に散乱している花びらだった。
「何がそんなに眩しいの?」
恭子が男に聞いてみる。
「鏡が……」
男はそう答えるだけで、相変わらず眩しそうに花びらを見ている。恭子が花びらの一つを拾って手の平に乗せた。そしてそれを男の手の平に優しく乗せる。
「これは花びらじゃない。鏡なんかじゃないのよ」
優しく言い聞かせるように恭子は話したが、男の耳に入っていたのだろうか。手の平に乗った花びらを見ながら、
「白髪の紳士だ」
と恭子にとって訳の分からないことを言っている。
記憶喪失患者に、身体的な検査を行うのは当然であろうか。肉体年齢と、精神年齢を調べるのも大切なことだった。
精神科医はカルテを見ながら恭子に話している。
「すごいんだよね。この人」
「どういうことなんですか?」
「見た目はそれほど身体を鍛えているって感じしないんだけど、肉体的な運動能力はまるで高校生並みなんだよ。きっと人生の中で一番運動能力のある身体なんだね」
「それが不思議なんですか?」
「ああ、普通これだけの運動能力があれば、身体の筋肉はそれなりに発達していて不思議はないんだが、筋肉はすでに老化現象に入っていて、持っている運動能力をそれなりに使ってしまうと、身体がついてこないはずなんだ。本人に自覚がなかったのかな?」
精神科医は、不思議そうに男を見つめている。そして、さらに続けた。
「記憶がない今だから、却って怖い気もするんだよ。このまま自分が分からずに本能のまま行動すると、身体がバラバラになってしまうんじゃないかな?」
「まあ、それは恐ろしい。何とかならないのかしら」
「こちらも気をつけておくよ。一番いいのは記憶が戻るのが一番いいんだが、今は何とも言えない。ここまで記憶が戻らないんだから、ひょっとしてこのまま戻らないような気もするんだ」
「そんなにひどいんですか?」
「いや、最初見た時は、浅い記憶喪失だと思ったんだよ。データ的にもそれほど重度ではないからね。それは今も変わっていない。だからそれだけに、いまだに記憶が戻らないことが恐ろしいんだ。きっと、記憶を封印している何かが想像もつかない何かなのかも知れないね」
「意図的に記憶を消していると?」
「それもいえるだろうけど、それよりも、他にも同じような人がいっぱいいるんじゃないかって気がするんだ。それを我々精神科医が知らないということは、その人たちは、精神科医の元を訪れるまでに、死んでいたのかも知れないね」
「自殺ということ?」
「そうだね。実際に、彼の腕を見ると、手首を切った後があるんだ。それも最近ね。どうしてなのか分からないが、そのショックは少なからず彼のトラウマになっていることは間違いないと思うよ」
「でも、彼は私におかしなことを話すんですよ」
「おかしなこととは?」
「表の桜の木を見ながらなんだけど、白髪の紳士がどうのこうのって」
「それはおかしいね。彼は鏡に何かしらの恐怖を鏡に感じているみたいだね。私は彼の記憶を失わせた原因が鏡にあるような気がして仕方がないんだ」
そういって精神科医は鏡を見つめる。
「私は鏡をあまり見る方じゃないんだけど、たまに見ると、急に歳を取ったことに驚くんだよね。でも、時々若返ったように見えて喜んでいると、そんな時に限って身体が思うように動かないんだ」
「どういうこと?」
「きっと、身体では覚えているんだよ。だから鏡を見て若返ったと思っていると、意外と思ったより身体が動いていない。年齢相応だから当たり前なんだけどね。そんな時に何かを忘れていっているような気がすることがあるんだけど、それって自分の若さが鏡に吸い取られているんじゃないかな?」
「錯覚でしょう?」
「そうだろうね。でも、本当にそうなのかな? 鏡には何か魔力があるような気がしているだろう? 人に言うと笑われると思って誰も言わないけど、皆大なり小なり鏡には何かしらの思い入れがあるはずなんだ」
「じゃあ、鏡に吸い取られたあとはどうなるの?」
彼の言いたいことが何となく分かってきた恭子は、確かめる意味でも聞いてみた。
「きっと記憶を失うのかも知れないね。彼のように……」
恭子は考える。今までいろいろ記憶喪失の人がいるが、その原因はいろいろあるかも知れない。少なくともその一つに鏡がその人の記憶を吸い取るようなことがあって、何もなければ思い出すのだろうが、もし何かの原因でその鏡が割れてしまったとしたら……。
恭子は割れる原因は結局その人にあるように思えてならない。自分の中に何か封印しておきたいものが表に飛び出すのだろうが、結局それ以上の進展はないだろう。
――目の前にいる男、この人は歳を取っていくのだろうか――
恭子は、記憶喪失の人を見るたびに、桜の花びらを見つめていた男のことを思い出すに違いない……。
そして割れてしまった鏡だが、今度は誰のところに現われるのだろう? それは誰にも想像ができない……。
( 完 )
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次