短編集90(過去作品)
佐々木には現在付き合っている女性はいない。大学時代にはいたのだが、元々清純な女性が好きなので、大学時代に付き合っていた女性も、
「私、男の人と付き合うのって初めてなの」
と言っていた。きっと、清純な女性が好きだということが、彼女にも分かっていたのだろう。お互いにすぐに気心が知れた。
「まるで幼馴染みたいな感覚ね」
さすがに男性と付き合ったことのない女性で、自分も女性と付き合うのが初めてという初々しすぎるカップルで、しかも幼馴染のような感覚と言われてしまえば、身体を重ねるまでには至らなかった。手を繋ぐところまでは早かったが、それからはお互いに腫れ物に触るような感覚で、
――やっぱりどちらかが経験ないと、うまくいかないものなのかな――
という思いだけを残して別れる結果になった。お互いに訳が分からないうちに別れてしまったのだ。
しかし、それもあとになって感じたことで、
――やっぱり老けて見えることがいけなかったのかな――
と考えたものだ。
老けて見える……。それだけ頼りがいのあるように見えたのかも知れない。しかし、実際に中身は子供のようなアンバランスさに嫌気がさしたのだと思っていた。やはり見た目と精神年齢の差というものは自分で感じているよりもさらに相手には分かるものではないだろうか。
必要以上に意識していただろう。そのためまずは知識を豊富にすることを心がけた。本を読むようになったのもそれからで、雑学の本などを読んで、話題性を深めることに専念した。
読んでみると本というのも面白い。何よりも気持ちに余裕を持てるようになったのが最高だった。いわゆる贅沢な時間の使い方というのだろうか、馴染みの喫茶店を作りたいと思ったのも、そもそもはそこからである。
これも本の魔力というものだろう。
本を読んでいてすっかり眠ってしまったようだ。
その夢というのは、思ったよりもリアルなもので、眠ってしまってそのあとを追うような夢であった。
普通、夢というと潜在意識が見せるものとして意識の中にあることが出てくるものだ。しかし、よほどの意識でもない限り、眠ってしまった状況とはまったく違う光景を夢に見る。その時どれほど本を世に他ことを意識していたか分からないが、同じ光景であるにもかかわらず、眠ってしまった続きを夢で見ているという意識があったのだ。
その時の佐々木は、目が覚めてすぐ、尿意を催しトイレに行きたくなった。コーヒーを飲んで眠ってしまったのだから、トイレに行きたくなるのも当然である。
――どれだけの間眠っていたのだろう――
夢を見ているという意識があるのに、不思議なことを考えるものだ。本当に目が覚めた時に考えることを夢の中でも考えている。
身体を伸ばそうとしてやめた。またこむら返りを起こすのが怖いと、咄嗟に判断したからである。しかし、その時にさっきまで痛かったふくらはぎの痛みは完全に消えていた。夢だと思った最初が、意外と痛みのなかったことを無意識に分かっていたからかも知れない。
トイレまでの距離がいつもよりも短かった。だが目の前に見えているのに、思ったよりも時間が掛かり、すっきりとしてから、顔を洗おうと、洗面台の前に立って自分の顔を見た。
――おや?
何かが違う。先ほどと同じように若返った顔であるにもかかわらず、どこかに暗さを感じるのだ。
――なあんだ――
よく見れば光の加減であろうか、顔の右半分が完全に影になってしまっていて見えないではないか、だがそれにしてもおかしい。蛍光灯は真後ろから当たっていて、目の前の洗面台にもライトがついているので、顔半分が暗く見えるなど変である。
――どうしてだろう?
そして次の瞬間に感じたことで、咄嗟に身体が反応した。
――危ない――
鏡の前から自分の姿を消すように、そのまましゃがみこんでいた。頭を手で隠して、肘で耳を覆うようにしていたのだ。
「ガチャン」
大きな音が響いたかと思うと、目の前の鏡がいきなり割れてしまったようだ。恐る恐る顔を上げると鏡の破片が木っ端微塵に、見事に放射状になって飛び散っていた。それを見た記憶を最後に、目が覚めたようだ。
――やっぱり夢だったんだ。夢でよかった――
と思った。その反面、
――なんてリアルな夢だったんだ――
夢だと分かっていても、どうやってトイレから自分の席まで戻ってきたのかなどという不思議なことを考えている。
「どうしたんですか? かなりうなされていましたよ」
夢の内容も、それがどの程度のものかなどまったく知らないマスターは気楽なものだ。当たり前であるが、ニコヤカに話しかけてくれる。
「いや、大丈夫です。あまりにも夢がリアルだったので、ちょっとビックリしているところです」
「実は私もリアルな夢を見たことあるんですよ。夢を見ていても分かるんですよ。夢を見ているってね」
もう少し聞いてみたくなった。
「それで?」
「ええ、それで、目が覚めてからもしばらくは意識が朦朧としていましてね。誰かに話しかけられてやっと意識がしっかりしてきたんですよ。ところが……」
ここからが肝心である。
「ところが?」
佐々木が息を飲んで返答を待っていると、
「それ自体が夢だったんですよ」
と、言うや否や、意識がまた飛んでしまったようだ。
今度は本当に目が覚めたようだ。カウンターでは忙しそうにしているマスターの後姿が見えた。確かにさっき話したマスターが夢の中の人だったことを意識できる。
――きっとあれが夢の中のオチだったんだ――
夢を見るのは潜在意識が働いているから。その潜在意識はきっと自分に何かを見せたいはずである。それがオチだとすると、やはり最後に夢に出てきて、
「これ自体が夢ですよ」
と言ったマスターの言葉がオチだったとしても、何ら不思議なことではない。だが、それが何を意味するものなのか、すぐには分からなかった。だが、鏡が割れたことと、二重に夢を見ていたということが、あながち無関係ではないように思えるのだった。
不思議な気持ちのまま家に帰った。本当は他にもいろいろ行ってみたい気がしていたのだが、なぜか胸騒ぎがして家へと向ったのだ。
部屋に帰ると一瞬、変わったとことは何もないように感じたが、向う先は一直線に洗面所である。洗面所の鏡が割れていることが分かっていたのだ。
――やはり――
割れた鏡の破片が、皆同じ大きさで、しかも放射線状に砕け散っている。人為的に割ったのだとすれば、これだけ規則的な割れ方はしないだろう。それも不思議だった。
鏡が割れている破片を見ると、急に力が抜けていくのを感じた。しかし、それは余計な力が抜けていくようで、却って力がよみがえってくるような気分なのだ。割れた鏡の破片だけ掻き集めて一箇所にまとめた。それを捨てる気にはどうしてもなれない。
一つの破片を取り出して自分の顔を見てみる。そこに写っている自分が、自分の知っている佐々木ではない気がしたからだ。
顔が写し出される。まず感じたのは真っ白な髪だった。髪の毛はフサフサなのだが、完全な白髪になっている。
――よかった――
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次